名護屋城跡と唐津城 | Archive Redo Blog

Archive Redo Blog

DBエンジニアのあれこれ備忘録



呼子でいかを食べたあと、せっかくなので近くにある名護屋城跡と唐津城を見に行きました。

名護屋城は、文禄・慶長の役の際に、大陸への進攻の拠点として秀吉が築いた城ですが、秀吉の死後、廃城となったと考えられており、今は石垣や空堀などの遺構が保存されています。




よく見ると、石垣がかなり崩れているところがあるのですが、これは島原の乱のあと、一揆などの立て籠もりを防ぐために切り崩した跡のようです。

とはいえ、当時、大阪城に次ぐ広さだったと言われるだけあって、残っているだけでも城郭はかなり大きいです。




本丸御殿跡も広いです。(左奥が天守台)




天守台からは玄界灘が一望できます。

この平和な時代にはのどかな風景ですが、当時はこの城の周囲にも各大名の陣屋が配置され物々しい雰囲気だったはず。

秀吉は何を想ってここから海を眺めていたんでしょう?




あ、そういえば、大手門跡の近くで真っ白な野生の藤が目を惹いていました。

この季節、藤棚の藤もいいですが、こういった野生の山藤もいいものですね。




で、藤と言えば、唐津城の藤。

ちょっと散り始めてはいましたが、天守閣をバックに見る藤棚はいいですね。


唐津城は寺沢広高が1608年に築いた城で、松浦川の河口に突き出た唐津城を中心に砂浜が鶴の翼のように広がることから舞鶴城とも呼ばれています。




現在の天守閣は観光施設として再建された模擬天守で、建物自体にはあまり見どころはないのですが、内部には唐津藩政に関する資料や古唐津が展示されているほか、眺望もなかなか。

玄界灘を一望できるほか、寺沢広高が潮風を防ぐために植林したという虹の松原や、唐津市内を一望できる鏡山なども望むことができます。


この唐津城の築城には名護屋城の解体資材が使われたと言い伝えられているそうです。

この頃、古い城の廃材を利用して新しい城を築いたという話はよく聞きますが、城を建てるということはそれだけ大変だったということなんでしょうね。特に小大名にとっては。