今日も遊びに来てくださってありがとうございまぁ~す
お手数お掛けしますがよろしく哀愁
自宅ベランダから昨日の夕暮れ
西側のベランダから
これまで「こうなりたい」「こうしたい」というような望みがいろいろありました。
でも、それもだんだんなくなり、それよりも「毎日いかに自分が心地よく過ごすか」と自分に集中して生きてきました。
今年入りちょろちょろと気付きやシンクロがあったのですが、
6月にどーーん!とこの気付きが起こって
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さらにこの気付き。
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そっから何も望まなくなったというか、どっちでもいい、どうでもいい、という心境になりました。
今は「愉しむ」ということもこだわりもなくなり(「愉しい」という感情はもちろんあります)元々ない物欲もほぼなくなり、あれだけ好きだった雑貨屋さんすら見なくなりました。
食べ物もこだわりがなくなりアイスも私よりオットが食べてます(笑)
それすらも何とも思わなくなった。
あれほど嫌だったオットとの生活も何も感じなくなった。
オットが好き放題やるために借金は増え金銭的には大変だけどオットを恨むこともなく、体も変わらずボロボロなんだけどどうのこうのとグズグズ思わなくなった。
そうなってからオットとケンカも全くなく恐ろしいほどの平穏な日々。
これ、すごくない?
てか、ありえない
てか、意味わかんない
「好き、嫌い」「愉しい、愉しくない」「こうなったら嫌だ、こうなって欲しい」というようなジャッジがない。
イヤなことがあってもオロオロしたり落ち込むこともなく嬉しいことがあっても舞い上がることもなくなりました。
日々、嫌なことも愉しいことももちろんあるけど私にとってはどちらもおんなじような感覚。
無感動ってことではなく感情にムラや偏りがなく、振り回されることもない。
決して投げやりや諦めということではなくマジでどーでもよくなってしまった
出来事やモノ、人、いろいろと執着がなくなった。
フラットってよく言うけどこうゆうことなんだーと身をもって経験して理解できてます。
一言で言えば、
めっちゃ
ラク!
不要な感情がなくなったため小さな望み、
例えば、あれ食べたいなー、オットがこの時間に帰って来たら助かるな、みたいな日常生活の中の些細なことが当たり前のように叶う。
と、なると大きな望みも時短で叶う仕組みなんですが望みがなーい
先日のお茶会のあと、ふと「引越してきてから神社に行かなくなったのってこれだったんだ」と気付いた。
以前は地元の神社もよく行ってました。
今の家に引っ越したら熱田さんが近くなるからちょいちょい行けるなーと思ってたのに何故か足が向かなくなってました。
何故かわかった。
望みがない!
神様にお願いしたいことがないのです
今までのように「神様聞いて~」とぶーたれたり、泣きながら神様に訴えることもない。
神社で神様にお願いするもんじゃないという人がいますが叶う叶わないは別としてお願いはじゃんじゃんしていいと私は思っています。
愚痴も泣き言もいい。
神様は人間のように了見が狭くありません。
ただし、やり方はありますが。
こんな自分に戸惑いつつ、戸惑う自分もいーじゃんなんて感じながら日々淡々と過ごしています。
ブログもお茶会についても「飽きた」「つまらない」「愉しくなくなった」のではなく私はやってもやらなくてもどちらでもいいなーと思ってて「せっかくここまで続けてきたんだからこの先も・・・」って気持ちもありません。
必要としてくれる人がいるのなら続けてもいいか、という感じなのでそのうちやめるかも知れませんね。
2017年の今日の記事もよろしく
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