66.【酷すぎる】戦後朝鮮人の蛮行【田岡一雄の証言】 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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「差別だ、差別だ」と騒ぐ朝鮮人が、わが国で戦後どのようなことをやってきたか。一つの事例として、「田岡一雄自伝」から引用します。


山口組三代目=田岡組長が見た、朝鮮人の醜い行為の数々。日本のヤクザは情けがありますが、彼らにはまるでそれがありません。人の皮を被った悪魔です。


これだけの悪事を働かれては、日本人が朝鮮人を嫌うのは当然だと思います。ここの記述はごく一部に過ぎません


彼らは暴力を用いて、集団で役所を襲い、税金免除、朝鮮学校への助成金と税金免除、生活保護受給や公務員就職、大学受験優遇などの権利を奪い取っています。

許せない事だらけです。
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戦後、朝鮮人がやっていたこと 「田岡一雄自伝」より (酒たまねぎやHP)

http://www.tamanegiya.com/tyousennjinntohann19.11.26.html


 平成19年11月24日土曜日晴れ ××××
  手元にある「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)よりの引用

  <その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。

  敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。

  その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。

  終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。

  略)

  三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。

  通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。 善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

 彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。

  腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。

   警官が駆けつけてきても手も足も出ない。

 「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」

   警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇~十九三

  <昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。

  一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
 途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

 「どないしたんや」
 「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。

 この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
 「ここにいるんやで。ええな」

 私は少女をその場において一目散に走った。

 少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。

  彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。

 <汚ねえ・・・・>
  うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四


 <昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。

  そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四


 田岡氏の著書に出てくる「三国人」とははほとんどが朝鮮人です。

 それは、下記のような箇所の記述からわかります。

 <朝鮮人同盟からの果たし状だ>P二一二
 <やはり三国人との抗争事件で丹波篠山へ朝鮮人征伐にでかけた>P二二六

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