「社員が多くて大変ではないですか?」という質問を良く受けます。


大変の意味が給与などのお金の意味と人間関係的な意味とありますが、多くの人は人間関係的な意味で聞いてこられているみたいです。


以前の私は「人は苦労のもと」と思っていた時期があります。


他人は自分の思うようには動いてくれない、だから人を雇うということは大変だ、という方程式で考えていました。


できる事ならあまり人は雇いたくないと思っていました。


しかし、最近は人と接することでしか人は幸せを感じられないと思っているので、多くの人を雇うことで私の幸せの感度も加速しているように思います。


当クリニックでは、私の娘もこんな女性になって欲しいなと思えるような人がたくさんいます。


人間ですからもちろん欠点はありますが、スタッフそれぞれにいい点を持っています。


スタッフが悩んで成長していく姿をみれることは、経営者みよりに尽きると思います。


人は他人が頑張っている姿に触発されて自分も頑張ろうと思えるような気がします。


私がもがき苦しんで成長していく姿を社員や子供に見せることで、彼女らも成長していくのではないかと思っています。


お互いが触発されて成長していく職場にしていきたいと思っています。


そのためには、トップの私が成長していかなければなりません。


苦労を歓迎して、困難から逃げないような生き方の手本ができるような人間になりたいなと思っています。





自分の思うように物事が進まない場合、人は大きく分けて3つの行動をとるように思います。


(程度の差はありますが)感情をむき出しにして周りに当たる。

 感情をむき出すことを恥ずかしいことと思って我慢する

 思うようにいかない出来事を、どう考えれば自分の成長に活かせられるかと受け入れ、考える。



子供を含め未熟な人のほとんどが、①の行動をしてしまいます。


物事が思うようにいかない時に周りの人のせいにして不平不満を言えば、一瞬は気持ちが安らぎます。


「悪いのは他人、自分は被害者である」と考えれば、自分は楽になれるのです。


しかし、そんな人を神様は許してくれません。


自分の過ちに気付くまで、その人に何度でも同じ出来事を与え続けます。


神様は意地悪で同じ出来事を与えているのではなく、「自分の過ちに気付きなさい」という慈悲の気持ちで同じ出来事を与え続けます。


その問題をその人が解決できるようになれば、神様はレベルアップした違う問題をその人に提示します。



では次に、少し大人の人は②の行動で、自分の感情をあらわにすることを人間として恥ずかしいと知っているので自分が我慢して、嵐が去るのを待つように解決を時間に任せます。


しかし、この行為は度を越すと鬱などの原因にもなりかねません。


人間的に問題のある①の行動をとる人よりも、一見真面目な②の行動をとる人の方がストレスになるというのは何か間違っているように思いますが、②を進化させれば、③の行動に移行できるのです。


②の行動の根底には「悪いのは他人、自分は被害者である」……でも大人として①の行動をとることは間違っていると思えるから我慢しているのですが、我慢も積もり積もってくるといつかは爆発してしまいます。


それに比べて③の考え方は、思うようにいかないことが自分の未来を切り開くきっかけになってくれるのですから、思うようにいかない出来事を「何のチャンスだろうか?」「この出来事から何に気付けるだろうか?」と受け入れられるのです。


思うようにいかないことは、①や②の行動になりがちですが、「神様は意地悪で思うようにいかない出来事を与えているのではなく、自分の受け入れ方の未熟さ(や考え方の過ち)に気付きなさいという慈悲の気持ちでその出来事を与えている」と信じれることで、時間とともに前向きな受け入れ方をできるようになってくるのだと思います。



世の中で成功している人は、間違いなく③の考え方をしています。


周りから幸せそうに見える人も、間違いなく③の考え方をしています。


完璧にはできないにしても、そういう人たちは、③を目指して生きています。



①の行動に疑問を持たない人もいれば、ストイックに③を追及して生きている人もいます。


多くの②の人たちは③へのきっかけをつかめば、②の期間が長い人ほど、簡単に③に移行できるのだと思います。





「社員教育ってなんだろう?」と考えた時、社員の人生に関わることではないかと思ってきました。



自分の言動が、社員の中に少しでも影響を与えることができれば、それは社員教育なのではないでしょうか?



朝礼を通して、仕事を通して、日常の生活を通じて……



何でもいいので、少しでも社員の人生に関われれば、それが社員教育なのではないかと思います。



好むと好まざるにかかわらず、一般的に、社員はトップには、従わざるおえません。



ですから、トップは自分の生き方に社員を巻き込んでしまいます。



いやがおうにも、トップが、社員に影響を与えるようになりますので、できる事ならいい影響を与えたいものです。



少なくとも、トップはいい影響を与えているつもりで社員を巻き込んでいかなければいけないと思っています。



人が生きている目的は、他人に関わることだと思っていますので、社員にとっては有難迷惑かもしれませんが、トップの人間にとって、他人の人生に関われることが最高の幸せなことなのかもしれません。

幸せには4つのタイプがあります。


それは奪う幸せ、与えられる幸せ、獲得する幸せ、与える幸せです。

 

世の中には、人から何かしてもらうことでしか幸せを感じられない”与えられる幸せ”を求める人が大半でしょう。

 

向上心の強い人は、自分で何かを“獲得する幸せ”を目指します。

 

そして本当に幸せな人は、人に与える幸せを知っている人なのです。

 

一方、最悪なのは、人から何かを奪おうとして、奪うことで得たものを幸せに思っていることです。

 

他人から何かを奪えば、奪われた人は取り戻そうとしたり、普段から、何かを奪おうとする雰囲気を感じ取れば、周りの人は奪われないように自然と防御が固くなります。

 

奪うタイプの人は、奪ったものは目減りし、日に日に奪いにくくなってきます。

 

一方、人に与えるタイプの幸せな人は、与えたことで幸せを感じた上に、与えられた人の一部は自主的に何かを与え返そうとするようになっています。

 

従って、何かを与えることで知らない間に複利がついてくるということなのです。

 

奪うことで得たもので幸せを感じる人は、法律的には牢屋に入らなくても、社会において日々不幸せ、恐怖心という重荷を背負って生きているのです。

 

人間の本能として、奪ってでもてっとり早く何かを得たいという気持ちが存在するのは仕方のない事かもしれませんが、人から奪うことに幸せを感じている人と接すると、普通の人は頭にきて当然ですが、そういう人は、不幸という十字架を背負って、負のスパイラルの真只中にいる人なので、世界一同情すべき可哀想な人なのです。


人間が生きている意味は、「与える幸せ」に気付くことのように思います。


「一日は24時間で、人間の能力には大差がない」と私は考えていますので、あとは日々の心の持ち方と24時間の使い方で、出てくる結果に大きな違いが生じます。


24時間をどう使うかという場合に、睡眠とか食事とか本来削るべきでない時間と、自分でコントロールできない時間が半分以上あるでしょう。


残りの限られた時間の中で、自分の夢や目標達成のために何をすべきかという選択が大切になってきます。

 

その際にポイントとなるのが、何を消去するかということなのです。


やるべきことを抜き出したら、あっという間にいっぱいになってしまいます。


昔「捨てる技術」という本がベストセラーになりましたが、時間を有効に使うために大切なことが、やらないことを決断することなのです。


たとえばテレビや飲み会や付き合いなどはどうしても必要なものでしょうか。


「テレビを見ないと会話が合わなくなってくる」「付き合いは断れない」……


いろんな理由からテレビや飲み会などはやるべきことの中に入っていますが、半年とか1年間海外に行っていると思えば、その間、テレビを見たり飲み会をしない生活になる場合が多いのではないでしょうか。


この2つの時間をもっと違うことに使うことだけでも、新たな時間を作れます。


また、新聞を読むにしても、最小限必要なことだけ読めば自分の時間が増えることになります。


暗いニュースの三面記事を、すべて知っておく必要はあるのでしょうか。


人付き合いを制限しろとかテレビを見たり新聞を読むなと言っているのではなく、自分が望む夢があるのであれば、その達成のためには何かを犠牲にしなければならないというのは避けられないのです。


目標を達成するためには、今までの常識を変えていかなくてはいけないのです。


今までの過去の延長の先に明るい未来が期待できないのであれば、期待できる未来のために今どうあるべきかという現在を変えることが大切になってくるのです。


過去からの現在に従えば今までの延長になりますが、望むべき未来からの現在を描いていくためには、何かを犠牲にすることも必要な場合もあるのではないかと思います。


「忙しい、忙しい」が口癖の人は、何年たっても同じように言っています。


やらないことを決められない人間は、永遠に忙しいに決まっているのです。