学生時代にカーネギーの本で「人と議論して勝つには、人と議論しないことである」というようなことを読んだ覚えがあります。

正確な文章は覚えていないのですが、「たとえ議論で勝っても敵を増やすだけだ」という趣旨だったように覚えています。


もともと人と争うことが好きではなかったのもあって、気が付くと、人と議論しないように極力自分の意見を言わないようになっていました。

今でもカーネギーの言っていることは正しいと思っていますが、今では自分の意見を言うことと議論をすることとは、大きな違いがあると思っています。


以前の自分からすれば、このようなブログにしても自分の意見を言うことは反論される可能性があるので決して進んでしなかったと思います。

しかし、今では、「自分の意見を発信する」ということはとても大事なことだと思っています。

人が生きているということは、日々どういうことを考え、どういう思いを持って生きているかで、その人の人生の価値が決まってくると思います。

別の言葉でいえば、どういう理想を目指して生きているかでその人の人生の価値が決まってくると思っています。

自分の考えを持たずに、なんとなく生きていくということは、生きている価値がないと思っています。


自分の意見を持つことと、それを他人に強要することとは別問題です。

例え、私のブログに対して、揚げ足を取ったり、反論されることがあったとしても、「自分の意見を待つ」ということは、私の生きているあかしであると思っています。

自分の考えを他人に強要はしませんし、議論してまで自分の考えを主張しようとは思いません。


以前は、それなら、誰にも分からないように自分の日記に書けばいいと思っていました。

でも、自分の考えを発信することで、自分の考え方がより早く成長することに気が付きました。

自分の日記に書いたのでは、絶対に甘えが出てきます。

どんな内容を書いても誰にも分からないので、適当に書けます。

しかし、他人に読まれるということで、責任が出てきて、自分の中でその考え方をより深く落とし込めます。

数をこなせば失言もあるでしょうし、周りの人に茶化されたり揚げ足を取られることがあるかもしれません。


それでも発信するのです。

「私は、こんなことを考えています。こんな人間になりたいのです。」と


成長を加速したい人は、自分の考え方を発信することが一番の近道なのです。

私自身、自己肯定感が持てるようになったのは、文章や言葉で自分の思いを語るようになったからだと思っています。


やはり今でも、議論は敵を作るだけだとは思っていますが……

仕事をしていて同業者や知り合いから「すごいね!」とか「頑張ってるね」と言われることがあります。

「すごいね」というのは、東京の中心で盛況ですごいねとか、たくさんの人を雇っていてすごいねとかいった、何らかの目に見える結果についての感想になるんだろうなと思っています。

「すごいね」と言われた時に、素直にうれしいですし、決していやな気持ちはしませんが、「すごいね」を追求していくと、いつかは必ず地獄に落ちるのだろうなと自分を戒めています。

「すごい」か「すごくない」かは目に見える物での他人との比較です。

自分よりすごい人と比べられれば、私は「すごくない」ということになってきます。

自分よりも「すごい」人に負けないように頑張っても、絶対に自分が一番になることはありません。

そうなると比べる相手によって、自分が優越感を感じたり劣等感を感じることになります。


学生時代は、優越感を感じたくてかけっこや勉強を頑張ったように思います。

しかし、優越感の先には幸せがないことに気が付きました。

子供のいじめは、自分が優越感を感じたいがために起こります。

優越感を感じたいために仕事を頑張っても、家庭はぐちゃぐちゃの人もいます。

優越感を感じるために仕事で結果を出したいから、悪いことだと知っていても不正に手を染める人もいます。

「すごいね」という優越感の追求の先には、必ず不幸が待っているのです。

一方、「頑張ってるね」は、プロセスを認めてくれていることになります。

結果は自分でコントロールできませんが、プロセスや思いは自分でコントロールできます。

言っている方は「すごいね」も「頑張ってるね」も同じ意味で言っているのかもしれませんが、受け止める方は目に見える結果ではなく、プロセスを大事にして生きたいと思います。


イチローが5打数5安打打てば「すごいね」と言われ、ヒットがない日は何も言われません。

でも、どちらのイチローの価値も変わりません。

人は、目に見える結果で人を評価します。かっこいいとか美人とかいった外見もそうかもしれません。


しかし、本当の幸せは、目に見えないものの先にあるんだということを忘れないで、自分に対して「すごく」ないかもしれないけど「頑張ってるね」と言える日々を送っていきたいですね。

私は何のために生きているのだろうか?

何のために頑張っているのだろうか?

とにかく、頑張ろう、頑張ろう、と自分を鼓舞して生きているつもりですが、何のために頑張るのかが不明確な時は、意志の力だけで頑張ろうとしているように感じます。

意志の力では、一時的には自分を鼓舞できますが、持続性がありません。

今もその目的がないわけではないですが、心から「○×のために生きている」と思えることを見つけていきたいです。

私が生きている使命感を見つけていくのが今の私の最大のテーマです。

先日、私の好きなビジネス作家の安田佳生さんの会社が、民事再生を申請して倒産しました。

そのニュースを聞いた時に、「経営って難しいな」と再認識しました。



安田さんは私と同い年ですが、本などの言葉の端々でこの人は本質を見抜く力がすごいと感心していました。

安田さんの会社のワイキューブは、社員もお客様も大切に考え、理想の会社のように思っていました。



しかし、倒産してしまいました……

倒産した社長ということは事実ですが、彼が優れた人間であることは今もって間違いがないように思います。

民事再生するということは、お金が返せなくて迷惑をかけている方がいることも事実でしょう。

しかし、社員やお客様のことを大切に思って経営してきたことに嘘はなかったと信じています。


直接お会いしたのは1度だけですが、本などを通じて共感するところが多かっただけに、今回の倒産はとても残念に思いました。

今のような先が読めない時代には、きれいごとだけで経営はやっていけないのかもしれません。

理想と現実にはどうしてもギャップがあると思います。



しかし、理想を追求しないで、世のため人のためにならずに経営を継続していくことは不可能です。

世の中から必要とされるから生き残っていけるのも事実です。


必ずしも理想と現実が一致しないように、「思い」と「結果」は必ずしも一致しないかもしれません。


しかし、「思い」のない結果が一時的にかなったとしても、そこに喜びや達成感はあるのかなと思います。

人として生きている以上、誰にでも、他人に喜んでもらいたい、人の役に立ちたいという利他の気持ちはあると思います。


利他の気持ちの結果として、利己も満足できる結果になればこれ以上の喜びはないと思います。

逆に、利己の気持ちの結果として、結果的に利他になる場合もあるとは思いますが、どちらにしろ、最終的には利他の気持ちなくして、心の満足感は得られないのではないかと思います。


安田社長から、社員やお客様への利他の「思い」を気づかせていただきましたが、これからもその「思い」は持ち続けていきたいと思います。

そしてどんな時でもおごることなく、謙虚な気持ちで生きていきたいと思いました。

最近、自粛と経済効果の矛盾を盛んに言われ始めました。

そもそも、不謹慎かどうかは、その人が心の中でどう思っているかが問題であって、同じような行動をしていても不謹慎かどうかを他人が見極めることは難しいのではないかと思います。


「本当に大切なものは目では見えない」と信じていますが、今回の震災に対して、悲しんだり、同情することが大切なのではなく、起きたことから何を学び、どんな生き方、行動をするかということではないかと思います。


被災者の方は気持ちが前向きになるのにも時間がかかるのも仕方がないと思います。

しかし、周りの人は悲しむだけでなく、行動していかなくてはいけません。

経済が落ち込めば復興も遅れます。

寄付をするにもお金が必要です。

雇用が確保できなければ、税金も集まりません。

一人一人が自分の持ち場で一生懸命頑張り、有形無形なことで日本に貢献していくことが大切なことなのではないかと思います。


表向きは何もなかったかのように前向きに頑張り、心の中では苦しんでいる人、頑張っている人のことを心に刻みながら生活していくことが、人としてのあるべき姿なのではないかと思います。

何回か前のブログに書きましたが、人は頑張る理由がなければ頑張れません。

今は、「東北地方の人の頑張りに負けないように頑張るぞ!」という理由で頑張るのが人としても成長できるのではないかと思います。


日常の当り前のことに感謝する気持ちが敏感になるために、今回の震災を心に刻みこんで忘れないようにすることが大切だと思っています。

そのためには、日々、東北地方の大変な思いをしている人をイメージしながら日常を生活していくことが、自分自身を成長させてくれるのではないかと思っています。