世の中には、大変な出来事を大変ではなく些細なこと、大したことではないような受け止め方をする人と、些細なことで大変ではないことをさも大変なことのように受け止めてリアクションする人にわかれるような気がしていいます。

 みんな誰もが自分のことが可愛いのですから、自分に起こったことは大変なことで、他人に起こったことは、些細なことととらえがちです。(笑)



目の前の出来事を「大変なこと」と受け止めるのか、「些細なこと」と受け止めるかは、「臆病」「繊細」「大胆」などの性格の違いで、持って生まれたものだと考えている人が多いように感じますが、後天的な生き方や考え方も大きく影響しているように感じます。


「自分は頑張っているんだ!!」という事を周りにアピールしたいから、日々「大変だ!大変だ!」と大変なふりをしている自分に気が付く事があります。(笑)


「大変だ!」と思えば、気持ちは被害者根性や逃げ腰になりがちです。

一方、「大したことない」と思えれば、前向きに考えられて気持ちで負けることはありません。

「事実は1つ、受け止め方は2つ」と言われています。


目の前の出来事をプラスに受け止めるのかマイナスに受け止めるのかで、当然、未来は違ってきます。

感情に流されれば、自己保身の気持ちから「大変だ!」と自分を擁護したくなるものです。それが普通の人間なんだと思います。


でも、自分は普通以上の人間になりたい、もっと前向きな人生を歩みたいと思うのであれば、未来から今を逆算して、「自分はこんなレベルで『大変だ』と弱音なんかはいていられない」と自分を鼓舞していかなくてはいけないのではないかと思います。

現在の延長が未来につながります。


今の延長の『未来』に希望を持てない、満足いかないと思うのであれば、自分の思い浮かべる『未来』から逆算して、『今、ここ』の現在を変えていくしかないのだと思います。


誰にでも明るい未来は待っています。


自分の未来が、今の延長の未来なのか、自分の思い描くような未来なのかは、今、目の前に起こっている現実をどう受け止めるかの積み重ね以外にはないと思っています。


そのためには「大変だ!」とのど元まで出かけても、口に出す言葉は「大したことない」「簡単だ」と強がって話すことが大切なのではないかと思います。


大変なことを大変だ、と言っていたのでは、ありきたりの人生しか待っていないと思います.

このブログも、かなり強がって無理して書いている部分もあるのを感じています(笑)

今、P.F.ドラッカーのマネージメントを学んでいます。

ドラッカーには5つの質問がありますが、その中の1番目が『われわれの使命は何か?』というのがあります。

当クリニックでは、半年に一度、すべてのスタッフに

「あなたは何のために頑張っていますか?」

「あなたは何のために仕事をしていますか?」

「あなたは何のために生きていますか?」

の質問について書いてもらうようになっています。



1年目のスタッフは、「???」という感じで、書いてもらった内容も表面的で薄いものが多いですが、多くのスタッフが、経験を積んでいくにつれて、奥の深い、よく考えている内容をきちんと書くようになってきます。



本当に、スタッフの書いた内容を読むと、書かれた内容と普段の仕事ぶりがほぼ正比例していると感じます。

仕事ができる人は、「頑張る理由」「仕事する理由」「生きる理由」がしっかりしています。



そういうことをきちんと考えないで仕事している人は、仕事ぶりも、生き方も周りに流されて適当になってしまうのではないかと考えています。


ドラッカーが5つの質問の1番目に『われわれの使命は何か?』を入れたのは、仕事とは使命感を持ってするものであって、「使命を持たない仕事は仕事ではない」という事なのではないかと思っています。


基本的に、人間は怠け者で、楽をしたい生き物だと思っています。

だからこそ、「使命」を持って仕事をしなければ、お客様の心に響く仕事はできないし、頑張る事も出来ないのだと思います。


スタッフの人数も増えてきて、みんなが同じ方向を向いて仕事をしていくためには、使命(ミッション)は不可欠なんだと思います。


当クリニックのホスピタリティ―の向上は、社員1人1人がワクワクするような「頑張る理由」「仕事する理由」「生きる理由」を持てるかどうかにかかっているような気がします。

そのためには、まずはトップの私が、ワクワクするような使命(ミッション)を掲げて先頭に立って導いていかなければいけない、といつも思っています。

人は楽しければ誰かと話したくなるし、悩んでいる時は無口になるものだ。

楽しい時に黙って、悩んでいる時におしゃべりになる人はいなのではないだろうか?



人が成長している時は、楽しく「おしゃべり」している時ではなく、悩んで自分だけで「自問自答」している時なのではないかと思います。



人への指導として、ティーチィングとコーチングがありますが、何かを教わること以上に、自分で気づくコーチィングの方が注目されています。

成長とは何かに気づくことであり、成長が自分の価値観や生き方を変えていくことである以上、気づきを熟成していくためには、誰かから教わる事よりも「自問自答」していくことの方が大切なのではないかと思います。



「私は常に誰かがいないと寂しいんです」とか「孤独が苦手なんです」ということを言う人がいますが、常に誰かとたむろしておしゃべりをしていないと不安になるという人は、自分なりの考え方や生き方を「自問自答」する機会も少なくなり、自分の考えというものが希薄で、周りからの評価を過剰に気にして、付和雷同的に世間の常識に流されやすくなってしまうのではないかと思います。

「覚える」事は簡単ですが、「考える」ことは疲れます。

「考える」ためには、考えざる負えない状況に迫られなければ、誰しも「面倒くさい」気持ちが勝ってしまします。


ティーチィングでは早く結果が出てきますが、すぐに忘れてしまいます。

一方、コーチングではすぐに結果は出ませんが、深く長くその人のスキルになってきます。


私自身、本を読んだり、誰かの話を聞いて「知ったつもり」になる事が多いです。

でも、「知識」を「知恵」に変えていくためには、もっと「考える」状況を作っていかないと表面的な知識で終わってしまうことを心配しています。


「考えざる負えない状況」を作っていくためには、できないことに挑戦して挫折し、たくさん恥をかき、とにかく必死に生きていくことしかないのではないかと思っています。

いざという時に「知識」は役に立ちませんが、「知恵」まで成熟していれば、「知恵」は必ず生きていく助けになると信じています。

人は優しくなるためにはまず強くならなければいけないと思っています。強いだけの人もいないし優しいだけの人もいないと思います。

強さと優しさはセットであり、強さとは自分の弱さを自覚していることでもあるように思います。

自分は弱い人間だからこそ、「知恵」を身に付けて、少しでも強く生きていきたいと思っています。

私は、「人間の能力には大差がない」と信じています。

もちろん、私とイチローとの野球の能力には天と地ほどの能力的な違いがあります。

しかし、歯科治療や私の得意な分野で競争すれば、当然ですが、私が勝ちます(笑)


学生時代は、国語、算数、かけっこ、など決められた科目や競技での競争でした。

でも、社会に出れば、種目は自分で選べるし、なにも1人で戦う必要もなく、自分が不得意なものは他人に協力してもらえればいいし、わざわざ、自分が不得手なところで競争する必要がありません。


私が、イチローと野球で勝負しようとすることは、私が素手でライオンに向かっていくぐらい勝ち目のない、無謀な挑戦になってしまいます。

仕事において、一通りのことができるようになることは大切ですが、他人は平均点で満足したり感動することはありません。

社会に出て、周りから評価されるレベルは、ずば抜けていなければならないと思っています。



そうはいっても、人間、なん個もずば抜けていることがあるわけではないでしょう。

頑張って生きていれば、1つぐらいはずば抜けているものが必ず見つかるものなのです。

今現在は、ずば抜けていなくても、すごく興味がある事ややりがいを感じることは必ずあるものです。

そういうものに出会えて頑張れている人は幸せ者だと思います。

例え、今は出会えていなくても、自分にもそういう能力は必ずあると信じて継続していくことが大切なのではないかと思います。

自己啓発とは、自分を変えていくことではないと気づきました。

自分を別人のように変えようとすると、必ず挫折して自己嫌悪に陥ってしまいます。

自己啓発とは、自分の弱さを受け入れて、そのうえで自分が持っているもの、興味があるものに気が付いて追及していくことなのではないかと思っています。



スタートは、自分の弱さ、未熟さを受け入れて、ありのままの自分で生きていく覚悟をしていくことなのではないでしょうか。

ありのままの自分で生きていく覚悟をして、その中で自分のいい点に目を向けていくようにしていくことで、何を頑張り、自分をどうアピールしていけばいいのかが少しずつ見えてくるように思います。


弱い自分、未熟な自分を否定して、かっこいい自分だけを受け入れるのではなく、すべてを含めて自分なのであって、自分は悪い点もあるけど、トータルで見ればいけてるんじゃないか、と思えることで自信を持てるのではないだろうか?

かっこいい自分だけを見てもらおうとするから、弱い自分、かっこ悪い自分の存在を隠そうとして、生きにくくなってしまうような気がします。

私の尊敬する稲盛和夫さんは

「人生、仕事の結果= 考え方×熱意×能力」という方程式を立てられています。

能力も大切ですが、それ以上に「考え方と情熱」の大切さを痛感する毎日です。

特に「情熱」さえあれば、何でもできるのではないかと思っています。

いつも何かに文句を言っている人がいます。



不平不満、グチ泣き言……そういうことを聞かされる周りの人は、決していい気持ちはしないだろう。

そういう人の周りにいる時、自分を強く持たないと安易に自分も同化させられてしまうものだ。

「類は類を呼ぶ」と言われるが、愚痴っぽい人の周りにはそういう人が集まってくるものだ。

常に、周りへの不平不満を言い合って、お互いの傷をなめ合うことでお互いの心のバランスを保っているのだ。

そういう人にとって、不平不満や愚痴泣き言を言わない人を見ると、無意識の部分で、自分のことを責められているように感じて、今度はそういう人を攻撃の対象にしてしまいがちだ。

自分の周りを見渡して、「なんで自分の周りにはマイナス思考の人が多いのだろう?!」と感じるのなら、まずは「自分がマイナス思考なのではないか?」と振り返ってみるべきなのだ。



ビジネスで成功する人の共通項として「何が起きても自己責任と考える!!」ということがよく言われている。

「自己責任」と考えれば、自分で解決策を考えられる。そう考えていくうちにいろんなアイデアも浮かんでくるもので、「自己責任」という姿勢で生き続けることで多くのアイデアが蓄積されてくるのだ。それ以上に、「自己責任」と考えることで、誰かに八つ当たりしたり、怒りという悪魔を近づけなくて済むのだ。



一方、何でもかんでも他人や環境のせいにしている人は、常に「自分は正しい」「間違っているのは他人や環境だ」という視点で、自分は変わる必要もないし、ただ運が悪かっただけだ、次は(自分に都合の)いいことが起こるに違いない、と考え、常に自分の気持ちは乱れ続け、怒り、不平不満などの悪魔と共存して、次の不幸を自分で手繰り寄せていることに気が付いていないのだ。

そういう人は「なんで自分ばっかりこんな目に……」「自分だけがこんなに頑張っているのに……」etc

常に自分を被害者にまつりたてて自分を慰めているのだが、それで一瞬はすっきりしても、継続的には「不幸の未来に一直線」なことに早く気が付くべきなのだ。



現実には「何が起きても自己責任」なんてことは、神様でなければできないことかもしれない。

しかし、自分の中でそういう気持ちで物事を見ていきたい、受け入れていきたい、と考えながら生活している人と、いいことが起きた時だけ感謝して、人生の大半では文句ばっかり言っていたのでは、その後の人生に大きな開きが出て当然ではないだろうか。



知人で、交通事故で車いす生活になったことでさえ、「この事故は神様からの最大のプレゼントだった」と人生を受け入れている人がいます。

世間的に考えれば、「最悪」と考えてしまうことでさえ、「神様からのプレゼント」だと考える人がいる一方で、どこから見ても恵まれすぎているという環境においてさえ不平不満を言い続ける人もいます。


「人の振り見て我が振り直せ」ではないですが、そういう不平不満が日常の人を見ながら、「自分も同じ過ちを犯していないだろうか?!」と反省し、自分はそういう後ろ向きな人に感化されないかどうかを神様から試されているのかもしれない、と周りに流されないような生き方をしていかなければいけないと思います。



人間以外でもニュースや活字においても、前向きな内容よりも後ろ向きな内容の方が人の心に同化しやすいものです。

今の社会は、ある意味、不平不満や文句を言いたくなればいくらでもそのきっかけはあふれています。

そんな社会の中で、マイナスの情報に流されない自分を維持することは容易なことではないかもしれません。



だからこそ、「何が起きても自己責任」という姿勢で生きる覚悟が大切なのかもしれません。

「そんなのは理想論だ」とかたずけないで、理想を目指して生きることが大切なのだと思います。


後ろ向きなのは無意識の自分、前向きになるのは意識した自分。



無意識で生きれば、人生は辛い事ばかりですが、意識的に生きていけば人生は捨てたものではない。