歯科医院の院長として23年が過ぎました。

経営者として、一番勉強になったのが人の使い方のような気がします。

多くの人にとって、経営とは、「お金を稼ぐこと」のようなイメージがあるのではないかと思いますが、私の中では、経営とは「人を育てること」というイメージの方が強いです。

「企業は人が全て」と言われていますが、経営者1人ができることはたかが知れています。


学生時代は、学業で優秀なことが最大の評価の基準でした。

それも、周りよりも優秀であればあるほど高評価の対象になりました。

いわゆる偏差値が高いということにつながります。

しかし、経営者になって自分だけが優秀になって、社員とのレベルが開けば開くほど、社員が駄目な人間に見えてくるし、社員からすれば、トップの言っていることが「意味わかんない!!」となってしまいます。


大人と子供をイメージしてもらえれば、すぐにわかると思いますが、大人からすれば当たり前であり常識的なことを子供たちは、できないことが殆どです。

そんな時に、多くの大人は「あれしろ、これしろ!!」と命令します。

「命令することと教育することは違う」ということを、私は経営者としての社員教育から学びました。


開業して長い間、私にとっては当たり前で常識なことを行わない社員に命令し続けました。

そして、そうしていくうちに私と社員の距離はどんどん開いていき、そこに信頼関係は希薄になっていき、その結果、社員から見た私は、「自分のやりたくないことを命令して無理やりやらそうとする嫌な奴」になり、私から見た社員は「何度言っても分からないし、言ったように行わない、ダメ社員」という社員と私は敵同士という関係になってきました。


命令すればするほど関係は悪化して、お互いの関係が悪くなって何も改善しないのであれば、見てみないふりをするようになってきました。

そうすると、お互いの衝突は避けられますが、私のストレスは日に日に溜まってきますし、社員はわがままになってきます。


命令しても反発されるし、見てみない振りをしても状況は悪化して、私の中では四面楚歌の気持ちで、社員教育の本を読んだりセミナーに出まくりました。

そうしているうちに、自分自身の子供時代や社員時代のことを振り返って自分を俯瞰するようになっていました。

自分の子供時代に、今当たり前のようにできていることができるようになったのは、親から命令されたからではなく、自分自身で気づいたからだし、社員時代にできなかったことができるようになったのも、無理やりさせられたのではなく、自分の意志でできるようになりたいと思ったからだと思い出しました。


当クリニックでは、入社2,3年目以降の社員には、教育係を担当させます。

そうすると、自分が指導係になると新人に頭ごなしに「あれしろ、これしろ!」「なんでできないの?!」という上から目線になり、自分の言ったとおりにできない新人にイライラしてきます。

そして、彼女らも私が通ってきた道を繰り返し、命令と失望を繰り返していきます。

そして必ず、「教育は難しい」「指導係はしたくない」という後ろ向きな方向に流れて、「他人に指導するよりもプレーヤーとして自分の技術の向上だけに集中したい」という考え方に流れてきます。


そんな時、私は、「あなたもいつかは母親になるよね。母親になるまで、指導として命令だけを繰り返して、自分の子供にも同じことを繰り返していくのか。教育者として指導者として未熟なまま母親になって、自分の子供を初めての実験台にするつもりか!?」ということを説明して、教育や指導は今だけのことではなく、今後、人と接していくうちで避けては通れないものだということを理解してもらうようにしています。


大人でも子供でも、相手がこちらの命令に従わないのは、その「意味と価値」を気づいていないか、やらされていると感じているからだ。

伝える方は、命令ではなくその行為の「意味と価値」を伝えているだろうか??

あるいは、無理やりやらすのではなく、自分の意志でやりたい、やらないといけない、と気づかせる工夫をしているだろうか?と自分に矢印を向けていくことが大切なのではないかと思います。


教育とは、自分が当たり前にできることを上から目線で相手に押し付けることではなくて、自分にとって当たり前のことなのに相手はなぜしないのだろうか?そもそもこの行為の意味と価値は何なのだろうか?ということを再考するチャンスなのだと思います。


教育や指導は簡単ではありません。時間もかかります。

しかし、教育以上にやりがいのあることは少ないのではないかと感じる今日この頃です。

 

 



経営者として「しんどいな!」と感じることの1つは、日々、答えのない決断をし続けることがあるように感じます。




学生までの勉強の問題には、「正解」がありましたが、社会人になってからは、問題の多くに答えがない場合が多いです。

社会人の問題の多くが「人との関わり」の問題であったり、「未来を予測していく」問題であったりする場合が多いから、1つの答えに絞れないのだと感じます。

「正解」がある問題というのは、どの視点から見ても答えは一つという問題ですが、答えのない問題というのは、見る視点によって「正解」が違ってくる問題なのです。




政治などがその典型だろうと思います。

どういう決断をしても、必ずマスコミからたたかれる。

どんな決断においても視点を変えれば、アラは必ず存在するものです。

完璧な答えはないし、たたかれるのを想定して、自分の信念に基づき決断を繰り返していくしかないのです。




私は安倍総理を尊敬しています。

彼の決断の1つ1つが正しいかどうかは、正直、私にはよく分からないです。

でも、彼が日本のために命を懸けて決断していることは伝わってきます。


トップが評価されるかどうかの判断基準は、正しい決断かどうかよりも、その根底に利他の気持ち、奉仕の気持ちがあるかないかの方が重要なのではないかと感じます。

日本を切り盛りする大変さと歯科医院を運営していく大変さではレベルが全然違うけど、トップに求められるのは、頭の良さ以上に、「使命感、正義感、責任感」の高さなのではないかと感じます。


学生時代は、勉強すれば知識を増やすことはできましたが、「使命感、正義感、責任感」を高めていくためには、日々、答えのない決断を繰り返していくことしかないなのではないかと感じます。

答えのない決断を繰り返さないといけないリーダーの仕事は大変だなぁ~、と思うこともありますが、そうしていくことでしか「使命感、正義感、責任感」を高めていくことができないのであれば、その大変さを歓迎していくしかないのだろうと思っています。




視点を変えていくことで見えてくるものが違って見え、多面的に物事を見える人間になれるためには、批判にさらされる恐怖と戦いながらも、いずれかを選択して決断を繰り返していくしかないのだと思います。




やりがいとは大変さと比例します。




誰もが簡単にできることにやりがいは感じにくいものですが、大変だからこそ知恵が湧き、達成できた時の喜びもひとしおなんだと思います。

「使命感、正義感、責任感」を高めていくことは、人が生きていく目的の1つであると思っています。

そうであれば、これからは答えのない決断を喜んで下していきたいと思いました。

 

 

多くの場合、自分が何度か感じたり気付いたことでも、そのまま無意識下に眠らせてしまいます。



知ってはいるけど自分のものになっていない、日常で自分の血や肉となっていないものが殆どなのです。

 そういう気づきの予備軍、腑に落とす予備軍をたくさん持っているのです。

そういうものを1ランク上の気づきをさせてくれる言葉や歌詞、テレビなどに感動するのです。



心にひびく歌や映画というのは、そういうふうに潜在意識に眠っている言葉に刺激を与えてくれるものなのです。

 1度も感じたり気付いていない内容は、腑に落とさせることはできません。

「言われてみればその通りだな!」ということは、相手の心に響きますが、「何それ?」「意味わかんない!」ということは、相手にスルーされてしまうのです。



何度も見たり聞いたりしているのに、腑に落ちていなかった内容を腑に落とさせてくれるきっかけになった言葉や人間に強い共感を得るのです。

そのきっかけを与えられることがコーチングであり、感動なのです。


私の持論では、上手に話すよりも思いを込めて話す方が相手に伝わると思っています。上手に話す人はたくさんいますが、思いをもって話すには話し手に情熱がなければ伝わりません。



他人と過去は変えられません。

他人を変える唯一の方法は、相手に気づかせることです。相手に気づかせるためには、まずは自分の心が動いた経験を積み重ねていって、それをわかりやすく伝えていくしかないのだと思います。



まずは自分の心が動いた経験を大切にして、その経験を自分の中で深く刻み込んで、相手に伝えることを繰り返していくことで伝え方もブラッシュアップしてくるのだと思います。

子供や部下の指導や教育の勉強をしていると、「YouメッセージよりもIメッセージを使いなさい」という教えをよく目にします。

「You」が何を失敗した、とか「You」がどうだ、と相手に伝えるよりも、「I」はどう思ったかを伝える方が、相手は気持ちよく変われるという手法だ。



指導の1つの手法として、かなり前から目にしていた内容だが、何か意味がよく分からなかったので、知識として頭の片隅にあったのだが、実際にはほとんど使うことはなかった。



学生時代は、知っているということが評価の対象だったが、社会人になって、特に経営者になって、知っているということには何の意味もないと思うようになってきた。

「YouメッセージよりもIメッセージ」ということをいくら知っていても使っていないのであれば、それは知らないことと同意語だ。



「YouメッセージよりもIメッセージ」という手法は、私の中で知ってはいてもなかなか使えていなかったが、この手法をかみ砕いていくと、「Youメッセージ」というのは、相手に指示命令をしてしまう行為だが、「Iメッセージ」は私の感想を言っているだけだから、相手は自分の意志として受け入れやすいということなのではないかと感じるようになってきた。

そう解釈すると、私の中で「他人と過去は変えられない」「人は命令では変わらない」「指導とは相手を変えることではなく相手に気づかせることだ」「何をさせるかよりも何のためにしているかを伝える方が大切」などなど、これまでの意識して実践してきている内容を組み合わせた手法として、「YouメッセージよりもIメッセージ」という手法もあるということなんだと思えたら、割とすんなり頭に入って実践できるようになってきた。



「知っている」ということで満足していても何も人生は変わらないが、知ることが「気づく」ための第一歩である、ということも事実のような気がしています。

「YouメッセージよりもIメッセージ」ということを理解するまでに感じたことは、「知っている」から「気づく」に変わるためには、「知っている」で満足しないで、謙虚で素直に「なんでだろう」を何度も繰り返して自分の頭で考えていくことが大切なのだと感じました。


ついつい「知っている」と思うことは多々ありますが、「知っている」と思った時には、条件反射として、「知っている」ことは、本質への入り口であって、「気付いて」いるのか、「実行している」のかを自分に問い続けていきたいと思いました。



口で言うのは簡単ですが、そのためには、「謙虚で素直」な生き方をしていかなければ、ついつい「知っている」の魔力に屈していしまうほど、「知っている」という力は強大なのだと感じる今日この頃です。

「人間は感情の動物である」と言われていますが、感情にも歓迎できる感情とそうでない感情があるように思います。

例えば、怒り、悲しみなどは、感じると嫌な気持ちになりますし、できるだけ早くその感情から離れた状態になりたいと思うのが自然のような気がします。
しかし、嫌な感情、避けたい感情だからこそ、真剣にその感情と向き合うことで何かが得られるような気がします。

「悲しい」「寂しい」「悔しい」と感じたら、「なぜ?」自分はそう感じているのだろう? 自分は、「どういう時」にそう感じるのだろう? この感情をプラスの行動に転じるためにはどう受け入れればいいのだろう? などなど、嫌な感情から逃げるのではなく、その気持ちをプラスに転化できる考え方を自分で持てれば、望まない感情が脳裏に浮かんだ時にも、決して100%マイナスなわけではないのだ、と思えるような気がします。

これは、「うれしい」「ありがたい」など好ましい感情が、浮かんだ時にも、「なぜ?」自分はそう感じているのだろう? 自分は、「どういう時」にそう感じるのだろう? この感情をプラスの行動に転じるためにはどう受け入れればいいのだろう? と考えることで、自分は、そういう場面に意識的に多く出会えるようになってくるのではないだろうか、と思います。

私は、いい感情も好ましくない感情も、すべては自分の受け止め方でいい方向にも悪い方向にも進んでしまうと感じています。

いい感情の時にもいい気にならないで、好ましくない感情の時にも逃げないで向き合うことで、自分の気持ちを俯瞰でき、感情に振り回されないで冷静な自分をキープできるようになってくると思います。

人間は感情を感じるために生きていますが、感情に振り回される人生になってしまうのか、感情を楽しむ人生に変えていくのかは、自分の感情を他人事のように俯瞰できるかどうかにかかっているような気がします。