これは老女の備忘録として書いています。
今朝のNHK, ‘‘妬み”が題材でした。いつもはこの時間にTVを見ることは少ないんですがたまたま出たのが、これ。
(妬み)の克服法を精神科医と妬み漫才の芸人さんがボクシングの試合という設定で会話するという趣向でした。
妬みをいつも抱えた人は、本当に大変ですね。頭の中がいつもイライラ、胸の中がモヤモヤしているなんて。
こんな風に言うと、上から目線のように感じられて、反感を持たれるかもしれませんが、私もこの感情に囚われて苦しんだことがありました。特に若いころに。
ある時、読んだ文章に、妬み、嫉妬は 「自分の手の届く範囲にいる者に対してが最も
多い」とありました。ハハ~ン!!昔流に言うなら、膝を打って、合点がいったところです。身の回りの、ちょっと手を伸ばせば、自分もそうなれそうな人物に強烈な嫉妬の感情が芽生えるんですね。
ところが、これが、どんなに背伸びしても届かない、天才とか、天然の超美形、巨万の富を持った大富豪とかだったら、憧れや畏敬の念はもっても、その人を妬むなんてことはまず、ありませんよね。うん、うん、そのとおりです。
私は、かって母の結構な毒を浴びてきたのですが、彼女の最も悪いところは、相手を
持ち上げるために、自己卑下の表現を使ったことです。自己卑下ならまだいいのですが、その対象に私を持ち出したことが、今でも不愉快な記憶で残っています。
例えば、訪問した家で、そこのお嫁さんを褒め称えるために。「まあ、なんてきれいに整理整頓されているんでしょう。ほら、○○子、見てごらんなさい。あなたもこのくらいきれい好きならよいのにね、本当に散らかしやでねぇ。ほほほ・・」
言われた方は、ウルサイ!!ですよね。そのほかにもいっぱいありましたが、思い出すのも嫌なので、ここでストップ。
こんな理不尽な中で私が自分の気持ちを守ってきたのは、ちがうところで、私は認めててもらおうという一点の希望でした。そのために、自分の準備をしました。社会に出て
そこで「まずまず、できる。」と認めてもらうためには、それなりの努力はいります。
そして、仕事では、どうにか人並みにやってこれたと思うのですが、そこで学んだことは本当に貴重な知識、体験でした。私の知ったことの第一は、世の中には、上には上がいるということ。こんなすごい人々がいるんだということです。
そして、そういう人々は、生まれ持った才の人もいれば、人知れず物凄い努力をしている人もいるという事実です。
そういう敵わない人々には勿論、畏敬の念を持ちました。
それと、これが大事な結論なのですが、所謂、私なりの観察結果から、
昔話の「ねずみの嫁入り」論に行きつくのです。
適齢期の娘を当代一の婿に嫁がせようと思った親ねずみが、さんざん探し歩いた先が、
あれまぁ、そばにいた同族のねずみだったという結論です。
素晴らしい人々は周りにいっぱいいたとして、しかし、その人とて万能のスーパーマンではありません。
そこはそこ、わずかでも、私は私の持ち味を認めようと思って生きてきました。
それは、ある友からの言葉がヒントになりました。
「まず、自分を愛さないで、誰が愛してくれるというの?自分を大切にしないで、誰が大切に扱ってくれるというの?」
そう、この言葉で、生きるのが前よりずっと楽になりました。
少なくとも、過剰に人を羨まない、比較しない、嫉妬しないという風に変わりました。
憧れは憧れでいいものです。少しでもお手本にして、習いたい、近づきたいというのは
自分を伸ばしてくれます。でも、その人になれないことを妬んだり、恨んだりするのは、自分で自分を傷つけているような、ある意味、自傷行為ですね。
人は嫌な感情を持っていると、表情にでます。
写真が一番それを現してくれます。私も一時、卑屈な感情になっていた時、写真に写っている自分はなんて情けない奴なのか、とぞっとしたことを覚えています。
毎日、あぁ、今日も無事過ごせたと思う時、生かされていると実感するのです。
こんなに自然災害の多い国に生まれて、たまたま戦争のない時代を生きている私。
そのうえ、衣食住に困らず、まずまずの健康を保ち、家族も大過なく過ごせている。
これは奇跡のような幸運だと思うんですよ。
これ以上、いったい何を望むというんでしょう。
そう考えると、夜眠りにつく前に、ついつい言葉にだして言ってみるのです。
「今日も、ありがとうございました。」 と。
このうた、そのままの境地で・・・
なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる(西行法師)