イスラム教の犠牲祭「コルバニ・イード」(Eid-ul-Azha)
昔々、アッラーから一番大切なものを生け贄として差し出すように言われたアブラハムは、自分が大切に育てた動物たちを次々に差し出していった。しかしなかなかアッラーの納得を得られす、とうとう全てを出し尽くし他にもう思い当たるものがなくなったところで、アッラーは言った。
「お前の息子がいるではないか」と。
そして、信仰深いアブラハムが息子の命を神に捧げようとしたその時、「待ちなさい。もうよい」と神はアブラハムの手を止めたのだとか。
つまり彼の信仰の深さを試したということだ。
そんなわけで、このコルバニ・イードでは自分たちの家畜(今ではお金を払って買う)を神のために犠牲にするという行事になっているらしい。
コルバニでは主に牛を犠牲にするのだけれど、牛を買う経済力のない人たちはヤギを買っていく。その他にもラクダで行う人もいるらしい。
牛の値段は基本的に大きさに比例していて、小さいものでは30,000タカくらい、高いもので1,500,000タカ(=およそ190万円)と車が1台買えてしまうほどのものもある。とくに田舎に比べてダッカの牛の値段は高いようだ。
そんな高価な牛は最高7人でシェアして買うことができるため、近所や友人たちとお金を出し合って1頭の牛を買う人も多い。ちなみにヤギは小さいので名義人は1人のみ。
これが牛を売っているマーケット
誰も買ってくれないから疲れ果てて寝ている。。。。
イード前の数日間は、その辺の道の開いているスペースにもたくさんの牛やヤギが並べられて、道路脇が臨時マーケットになる。
ヤギもいる。
購入した動物はマーケットから各自家まで引っ張って連れて行く。
使用人などがその役目を任されることが多いが、購入した当人は例え1歩でも10歩でも、自分が買った牛なりヤギを連れて歩かなければならないらしい。
これはあくまでも犠牲祭なので、他人任せにするな…ということなのかもしれないが、それにしても、1歩でも10歩でもいいというのは、時代の流れの中で人々が都合のいいように自然発生的に生まれたちょっと言い訳がましいルールのような気もする。。。
コルバニ・イードで犠牲となった動物は、その3分の1を貧しい人々へ、3分の1は親戚や友人へ、そして残りの3分の1は自分のものにする。
牛やヤギを買うことができない貧しい人々は、次々とさばかれていく肉を求め、大きな袋を持って家々を回るのだけれど、中にはそうやって集めた肉を安値で売りさばいている人たちもいるからおもしろい。
私のイード休暇は15日からの予定だったのだけれど、14日の突然のホルタル(ゼネスト)のおかげで仕事は休みとなり、12日(金)からスタートして明日までの9連休となった。
連休の4日間をシレットのNAZIMGARH RESORTS(www.nazimgarh.com)で過ごし、その間に行われた17日のコルバニはシレットにいる友人ザマンの家を訪ねて神に捧げる牛のカッティングを見た。
実は私がはじめて牛を捧げる儀式を見たのは、7年ほど前に訪れた中国貴州省の山奥にある少数民族の村だった。イスラム教のイードとは全く関係なく、それはその村で7年だか14年に一度行われている祭で、色鮮やかな民族衣装に包まれた村人たちが見守る中、村の男たちが広場に並べられた牛たちに1頭ずつ順番にナイフをさしていくのだ。
そこには牛の首を地面につなぐ一本のロープがあるだけで、あとは力のある男たちが全身で牛の体をおさえていたような気がする。もう7年も前のことだから記憶が確かではないけれど、牛の首から血が吹き出し苦しみ暴れている姿を見ていても目を背けたくなるような嫌悪感を感じなかったのを覚えている。
それどころか、私は牛が息をひきとった後に皮を剥ぎ開腹していくそのナイフさばきの美しさに目をうばわれていた。
ところが、今回のイードでは、四肢を縛られ身動きのできない状態で首にナイフを入れられてもがき苦しむ牛の姿を見ていて、私はなにか胸のあたりがしぼられるような思いで、体から絞り出されるような最後のうめき声や、観念してただただ宙を見つめ続けている目から目が離せなかった。
中国の時と同様に牛の皮を剥ぎ体を解体していくのだけれど、ひとたび息絶えてしまったその体に対する扱い方がもはや肉の塊としての扱いになっているような気がして、同じような儀式の中の人々の思いの違いに思いを巡らせずにはいられなかった。
もちろん彼らはプロフェッショナルではなく、イードのために雇われている村人たちなので、仕事はあくまでもビジネスライクに行っているということも同時に理解しておかなければいけないと思う。
私が見たのは1つのケースにすぎないから、このコルバニ・イードの背景にあるムスリムの人たちの思いを計り知ることはできない。
ただ、私たちの口に運ばれる動物の肉は、そこに至るまでにひとつの生命を犠牲にしているのだという当たり前のことをリアルな映像で見せられたような気がして、店頭にグラム単位で売られている肉の塊のむこうがわには、生きている牛や鳥、ヤギの姿があるのだということを改めて思い出させてくれるいい機会になったと思う。