どうやら荷物の中身がひっかかったらしくしばらく郵便局で足止めをくらっていたため、予定よりも10日ほど遅れてようやく私の手元に届けられた。
理由は液体物や食べ物などとのことだけれど…真相はいかに?
最終的にはお金を払って解放してもらった。(この国では、お金で解決できること、お金じゃなきゃ解決できないことが多々ある。もちろんお金でも解決できないことも)
どこまでが本当に規制されていて、どこからが担当職員の賄賂欲しさのための芝居だったのか…いずれにしてもこの荷物と引き換えに、彼のポケットがいくらか潤ったのは確かだろう。
母から届いた荷物は重さ1.5Kgもあって、日本から送る送料だけで1万5千円も支払ったというから、まずは無事に手元に届いたことに感謝しなければと思う。
中には日本の調味料、食材、お煎餅、漆塗りのお椀やお箸など、私が欲しいと思っていたものがたくさん入っていた。

(とんかつソースやみりんは手に入らないけれど、ケチャップやマヨネーズはさすがにバングラでも手に入ります…)
お煎餅の山にまぎれていた新潟魚沼産のお餅に目が止まって、「そっかぁ、今年も終わり行くんだなぁ」と、思いを巡らせるよりも早く五感が年の瀬や新年の空気を思い出しているのを感じた。
自分が生まれ育った国や地域の空気感というのは、何気ない物のなかに、自分は何でもない物のようにさりげなくとどまっているのだと思った。
それは、文化とか風習といった仰々しいものではなくて、まだ残暑が厳しい夏の終わりにのある朝、家を出た瞬間に秋の気配を感じたりするような、さりげないけれど、何かはっとさせられるものだったりする。
こうして外国にくらしていると、やはり自然と“日本人としての自分”というものを感じたり、意識したりすることがある。
それは、必ずしも国という大きなくくりでなくても、生まれ育った場所と今自分がいる場所…といったくくりでもいいかもしれない。
私たちは、それぞれ自分が過ごした場所の記憶を計るスケールを、知らず知らずのうちに体内につくり続けているのだと思う。
そしてそのことを知ることは、うれしいことだなと思う。