ナンバー484 小生のエッセイの宣伝 | 堀切光男のエッセイ畑

堀切光男のエッセイ畑

主にエッセイ。

 

小生のこれまでの掲載されたエッセイ作品の紹介です読みづらいので

視力の弱い方、または興味の無い方はスルーして下さい

 

 

上 散歩の達人「ラーメン屋春ちゃんからの便り」

郵便局の前に放置されているシャコタンのクラウンにいつの間にか外人さんが書いたと思われる

張り紙が張られていた その内容とは?

 

散歩の達人「モズが植木に?真相は藪の中」

アパートの小さな植込みの木にクチボソが刺さっていた これはモズの(ハヤニエ)では

ないだろうか? 日本野鳥の会に問い合わせたが分からないという

真相は植込みならず藪の中でした

 

上 散歩の達人「ラーメン屋春ちゃん戦国武将になる!の巻き」

映画で有名になった埼玉県の「お忍城(おしじょう)」

武将の鎧を着せてもらって ご満悦の小生

上 散歩の達人「ラーメン屋の秘密その2 冷やし中華」

冷やし中華はとにかく手がかかるモノなんです

だからなかなか「冷やし中華始めました」の張り紙を出したがらないのである

上 東京タワーに展示されたビートルズのロウ人形

 

「ビートルズに憧れてラーメン屋になった」

200年5月 公募「ビートルズ大賞」で審査員特別奨励賞を頂きました

 

私が始めてビートルズのサウンドを耳にしたのは 2965年。中学3年の時だった。

ベンチャーズに代表されるエレキブーム全盛期で、私も先ずそちらに飛びついた。

当時、ラジオの深夜放送はエレキ、シャンソン、ロック、マンボ等洋楽は

ポピュラーミュージックと呼び、毎夜放送。 毎週土曜日には、ベスト15を発表していた。

私は毎晩この放送を聞いていたので朝起きられず中学では遅刻常習犯と後ろ指を指されていた。

エレキにしびれ、一方では(愛しのパウラ)や(ミセスブラウンのお嬢さん)もいいなとあと

思っていた時、強烈なサウンドとハーモニーが飛び込んで来た。(ヘルプ)であった。

その軽快で、胸躍るサウンドはたちまち15歳の私を虜にした。

その日からベスト15を毎週ノートに控えるようになった。

その記録は今も青春の思い出として大切に保存してある。

それによると1965年(ヘルプ)は7月30日から9月17日までトップを占めている。

(アイムダウン)と(イエスタデイ)が2位まで迫る週もあるが

結局トップを守り通している。ちなみに9月24日に(ヘルプ)を抜いて

トップについたのはジョニー テイ ロットソンガたどたどしい日本語で歌う

(涙君さようなら)であった。この事からも解かるように当時は

多種多様の音楽が支持されていた。思えばのぞかな時代ではあった。

そういいながらも、その年の年間ベスト21を見ると、1位(ヘルプ)

2位(ロックンロールミュージック)と並び、その他(涙の乗車券)

(ノッポのサリー)などビートルズの歌がなんと8曲も入っている。

いかにすごい人気だったのかを思い知らされる。

さて、ビートルズの虜となった私はというと、次々と出てくる

ビートルズメロデイに酔いしれ、ビートルズのレコードが欲しくなった。

しかし私の村は山奥のそのまた山奥。町に出なくてはレコード店は無い。

しかも当時一枚450円のシングルレコードは中学三年生の少年には

一か月の小遣いをせっせと貯めてやっと買える代物だった。

自転車で片道二時間kぁけて、町まで一枚のレコードを買いに行くのが

毎月の楽しみとなった。こうしてビートルズのレコードは一枚、二枚と

増えていくのだが、悲しい事に私の家にはプレイヤーが無かった。

そこで私は日曜日に学校に行き音楽室で隠れて一人ビートルズに聞き入っていた。

ある日このすばらしい音楽を村の人々にも聞かせたいという

衝動にかられ校庭のスピーカーを通して静かな山間の村に大音量の

「DIZZMISSLIZZY」を流したのだ。

ビートルズの歌声は狭い村を突っ切り山にぶち当たってこだました。

その音量にビックリしたヤギは草を喉に詰まらせ、ニワトリは

飛び上がった拍子に卵を3個も産み落としたのではないだろうか?。

すぐに教員住宅の校長がすっ飛んで来て、大目玉を食った。

でも、私が如何にビートルズを愛しているかを切々と訴えると

高長は音楽室で一人静かに聞くことを条件に黙認してくれた。

橋本高長大先生様、あの時は本当にありがとう御座いました。

もし、あの時ビートルズのレコードが聞けなくなっていたら

たぶん私はグレていたでしょう。

そんなことをしている内に年が明けて1966年となり、卒業の日が近づいていた。

私は就職する事に決めていて、大阪の就職先を探していた。

第一希望はレコード店、次は電気店すべてビートルズがらみであった。

行きたくなかったのはラーメン屋、関西のうどんで育った私はラーメンが大嫌いだった。

しかし中々希望の就職口が見つ)からない。

そんな時にビッグニュースを耳にした。

ビートルズが6月に東京の武道館で来日コンサートをするというのだ。

私はすぐに上京を決意した。もちらんビートルズを一目見るためである。

遠い親戚に手紙を出し、都内の就職口を探してもらった。

ほどなく「ラーマン店なら人手を欲しがっている」との返事が届いた。

ラーメン屋?一番嫌いな所じゃないか。それにレコード店とはほど遠い。

しかし、ビートルズ公演も迫っている。

とにかく早く上京したかった私はその店を紹介して貰った。

こうしてビートルズに会える事を夢見て私は4月1日故郷の村を後にした。

翌日着いたのは足立区竹ノ塚。外ではではあるが都内には違いない。

レコード店も近くにあるし、プレイヤーを売っている電気店もある。

私は嬉しくて空高く飛んで行きそうだった。

6月30日の武道館コンサートはチケットこそ手に入らなかったが

せめて当日は会場の近くに行こうと思っていた。

しかし、就職したラーメン店はそんな企みなどぶっ飛ばしてしまうほど忙しかった。

休みなど貰える筈もなかった。

6月30日、ビートルズがオープニングの(ロックンロールミュージック)を

歌い始めた午後7時35分。私は出前の自転車をこいでいた。

(へルプ)を歌いながら・・・・・。

 

こうして私はビートルズのおかげでラーメン屋になった。

嫌いだったラーメンもいつの間にか大好きになっていた。

今も、自分の小さなラーメン屋で麺をあげている時、

ラジオからビートルズのメロデイが流れて来ると、遠い故郷の山並みや

青春の日々をなつかしく思い出すのである。

 

イエスタデイ・・・・(きのう)の事のように。

 

(完)

 

 

 

 

上 ナンバー23「洋次郎作品に励まされ」

思えばこのエッセイが最初の始まりだった。 読売新聞「気流」欄に投稿すると

直ぐに担当の編集部長さんから電話が有り

私の文章を全て読み上げた後

「明日の朝刊に乗せます 本名にしますか?匿名にしますか?」と尋ねられ

「本名でお願いします」と答えたところ 翌々日の朝刊に掲載されました

住所もそのまま掲載されたので 電話帳でわざわざ調べたのか翌日から

電話がぽつぽつかかって来て「感動しました 頑張って下さい」とのお声を頂きました

まさにこのエッセイに書いたとうり夢が叶った瞬間でした

調子に乗った小生は「こころの花束21」という公募にも少し手直しをして応募すると

これも入選して上の本が送られて来ました

ちなみに賞品は北海道は白い恋人たちで有名な「六花亭」のお菓子1年分でした

毎月小包で届きそれが12回続きました。お菓子の会社なので運送代を入れても

原価で2万円もかかっていないと思いますが おかげさまで 子供2人のおやつには困りませんでした

 

この話にも後日談があって小生のエッセイを読んだらしい文筆業と名乗る男性が

小生の文章の「母と姉」を「父と兄」「ラーメン屋台」を「おでんの屋台」と書き換えて

他の公募に投稿しこれも入賞してしまったらしい でも 悪い事は直ぐにバレます

その公募の主催者から「文筆業の男からは謝罪文を取りました申し訳有りませんでした」

との丁重な手紙が届きました

思えばこのエッセイは 3度も入選した事になった訳です。

 

下はそのエッセイの全文です

 

洋次郎作品に励まされ

「私が小学生の時に母が自殺し、数年後に姉も自殺しました。

私の心は中学の時にはナイフをポケットに忍ばせるほどすさんでいました。

事件を起こす事もなく卒業出来たのは、温かく見守っていてくれた先生方のおかげと

思っています。 中学を出て上京しラーメン店に住み込みましたが、

曲がった性格はなかなか直らず殴られながら仕事を覚えて行きました。

それでも、二十の時には一軒の店を任せられる程になったのです。

しかし、その直後、肺結核にかかっている事がわかり、長期入院を余儀なくされました。

再びすさんだ私は十日ほど病院を抜け出し帰らなかった事がありました。

さすがに気がひけた頃、電話を入れると看護婦さんが

「何も言わずに、とにかく帰っていらっしゃい」とやさしく諭してくれました。

病院に戻るとその看護婦さんは私を院内の図書室に連れて行き、

「ここには退院した人達が寄贈していった本が沢山在ります。

一冊でもいいから読んでみなさい」と言ったのです。

叱られるとばかり思っていた私は、あっけにとられました。

それでもそれらの本の中から石坂洋次郎の「山のかなたに」という一冊を手に取りました。

帰りたくても帰れない故郷の山並みがそのタイトルにだぶったのです。

そしてまさにその一冊の本が私の人生を変えてくれました。

「こんなにも楽しく、すばらしい青春があるなんて。

僕はなんて無意味な日々を送っているんだろう」

私は病床で様々な思いを巡らせながら、一連の洋次郎作品に没頭しました。

それから二年後、退院した私はラーメンの屋台を引く事から人生をやり直したのです。

その後結婚して店を持ち、子供達が成人した今年、私は新たに夢に向かって

チャレンジしました。 エッセイを書き始めたのです。

それは三十年前に洋次郎に出会った時、(僕も人に感動を与え、楽しませる文章を書きたい)

と願い、ずっと持ち続けていた夢でした。今日も私はペンを取ります。

夢は必ず叶う、そう信じて。」

 

2000年 11月15日 記

 

上 「おかえり」短文集第三集の公募に入選

「妻の父親が肺がんで入院、末期だったので妻は仕事が終わった10時から翌日の7時まで

病院に泊まり込み毎晩ん看病した まだ幼かった娘たち二人の世話もあり

ひと月もたつ頃には疲れ切っていた妻に私も疲れきっていたので

やさしい声もかけてあげれなかった。 やがて父は亡くなり病院から帰ってきた妻は

「病人は 看病している人が疲れた顔を見せた時、逝ってしまうんだって」

と、涙を見せた。その時私は 病院から毎朝帰ってくる妻に

「おかえり」とやさしい言葉をかけてあげれ無かった事を 深く後悔した」

 

 

上 散歩の達人「モズが植木に真相は藪のなか」