昭和46年2月
一年余の入院から退院し、古巣に戻ったものの
一年間 のブランクは いろいろの軋轢を呼び、孤立する事に。
何より店のオーナーが僕を 辞めたせがっていた。
オーナーの奥さんは可愛がってくれて、一年間の入院中も一万円の給料を出してまで、
退院するまで待っていてくれたのだが、オーナーの親父の方は余りにも封建主義で
外に愛人まで 作っていたので、家庭内では孤立していたが、そのうっぷんを従業員ではらしていた。
僕は いつも 逆らっていた。 親父は一年間は面倒見てやったのだからの口実で、
いい機会だからと僕を追い出しにかかった。
いやがらせがどんどんエスカレートしていったので 我慢も限界に達っし、
それなら辞めてやると都内から隣の埼玉県 八潮市に月 一万三千円の平屋のアパートを見つけ
引っ越す。
六畳と四畳半 台所 風呂 トイレ付きで1万三千円は土地柄とは言え格安、しかも敷金も無しだという。
後で分かったのだがある造園業の社長のお妾さんが住んでいた借家で、それだけでも近所の噂になるが
毎週末 社長と従業員が四畳半で徹夜マージャン。
そのまま寝込み タバコの不始末でボヤ騒ぎ、同じ敷地内の大家はホトホト困っていたらしい。
そんなところに空き家を探していた僕が現れたものだから これ幸いと、
「遠縁の 甥っ子を どうしても住まわせたいから」との嘘の口実でお妾さんを追い出した。
信じられないだろうが当時のこの地では 大家さんとの口約束だけで契約が済まされており、
お妾さんもボヤ騒ぎの引け目があったので、揉める事も無く、出て行ったのだ。
おかげで僕は 平屋の二軒長屋の北側の 借家を格安で借りる事が出来たのだった。
その3か月前頃の21歳 カラーテレビが店内にも設置。
さて、住む所は何とか見つけたが 現金は それまで勤めていた店の奥さんがくれた
退職金の10万円(毎月 給料から2千円づつ引かれ貯金して呉れていた)しかない。
さあ、明日からどうしよう。
とりあえず 近くの中華店を3軒ほど 飛び込みで回ってみたがどこも人出は足りていると
断られた。
一度就職してコツコツ準備をしようと計画していた事があった。
それは ラーメンの屋台を引く事だったが、もう 後が無い直ぐに実行する事にした。
先ずは保健所で許可を取る事、 すると意外な手続きがいる事が分かった。
今住んでいる 地区の 民生委員から失業中である事を証明するハンコを貰って来る事。
副業では屋台は引けないのだ。
幸いにも 僕はれっきとした 失業者、 直ぐにハンコを貰い 屋台の営業許可をとった。
五十年も昔の地方の話なので 現在はどうなっているのかは分かりません。
屋台は知り合いのつてから おでんの屋台だった古いモノを貰い受け 改良、
工場勤めの友人にガスバーナーで鉄板に丸い穴を開けて貰いソバあげ用の鍋を設置した。
その際「屋台を始めるんだが 資金不足なんだ」と言う話をしたら、 その友人は
「丁度 競馬で当てた 金があるから」と 5万円 をポンと貸してくれた。
持つべきものは友、本当に有り難かった。
浅草のカッパ橋に行きスープを入れる寸胴(こぼれないように蓋を止められるタイプ)。
明かりは カーバイトのランタンで昔は 良く使われていたのですが、今は見なくなった。
吊るしたランタンの中に固形のカーバイトを入れ上部から水を垂らすとガスが発生し、
これに火をつけた。
結構、明るかったのだが 匂いが強いのが難点だった。
他には プロパンのガスバーナー等を買いそろえた。
辞めた ラーメン屋から親父には内緒で 古い ドンブリやら、ソバ網、まな板に至るまで貰い受け
これで全てが揃った。
その2に続く

