ナンバー 318 ラーメン人生 (18歳~) | 堀切光男のエッセイ畑

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主にエッセイ。

 

 

 

1968年  加山雄三ブームに触発され素人エレキバンド(グループと言える程でも無い)を

 

結成、作詞 作曲を始める。

 

(ちなみに この車 友人の初代 スカイライン)

 

ラーメン屋店員としては三年目の半人前。

 

ラーメン修行より歌の方に夢中でした。

 

右は出前専門の頃、フーテンの寅さん そのものだった、

 

チジミと呼んだダボシャツに腹巻 セッタばき。

 

1968年 3月 15日 

18歳の時に始めての 作詞作曲で「君が 好きだから」を作る。

 

19歳で店長に昇格も半年後の12月に集団検診により、肺結核が見つかり

 

国立中野療養所に強制入院となる。

 

初めは落ち込んで脱走したりしたが(その時の話はナンバー23の洋次郎・・・に).

 

一週間で 諦めて病院に帰ると婦長さんは怒りもせず図書室に連れて行くと

 

「ここには退院した人達が残して行った本が沢山有ります。

 

今の貴方は只、本をいっぱい読んで見なさい」と優しく諭したのだった。

 

そうして石坂洋次郎の小説にはまり、それをきっかけに多くの本を読む事になる。

 

さて 1969年 12月も押し詰まる頃に 入院したのは江古田3丁目にあった「国立中野療養所」。

 

小高い丘の上に3年程前に建った 10階建ての新館と二階建ての古い旧館(こちらの大部屋に入室)

 

そして大正15年に開院した当時に建てられた今は使われていない、三階建ての旧、旧病棟は

 

この30年後心霊スポットで有名になります。

 

その他子供病棟もあって小学生の子供も10人位入所していました。

 

そして、一番興味を持ったのが広い敷地の一番奥の方にあった朽ちかけた建物で

 

高い煙突の焼却炉と隣接したアルコール漬けの人体の一部が棚に一杯並べられた

 

廃墟と化した研究病棟。

 

別に立ち入り禁止の札も無かったので探検のつもりで入ったのだが 草生しており、

 

まさか入院患者が入り込むとは考え無かったのでしょうね、おどろおどろしい場所でした。

 

ところで 強制入院は国の政策なので日用品以外 全て無料。

 

もし失業していたら生活保護も直ぐに貰えるという。

 

談話室にはガス台もあったし洗濯機を回しながら テレビも観れた(ゲバゲバ90分が流行っていた)

 

5万円だった給料はいきなり1万円に落とされたが、独身だし金もかからない。

 

よく考えたら 天国みたいな所と気付き 気持ちを切り替えて療養に専念する事に

 

しようとしたが、何しろ肉体的には元気な19歳、毎日が暇で暇でどうしようもなかった。

 

で、本を読むか ギターを弾いているかの毎日も永くは続かず、

 

 

前に書いた大正15年に建てられたという三階建ての 旧、旧病棟を探検する事に。

 

43年前の大正15年に建てられたというのに一部大理石が使われていたり

 

外壁は石積みの様な とてもしっかりした建物だった。

 

実際 この頃リフォームする計画もあったようだ。

 

もちろん全室空っぽで何も無かったが、驚いた事に エレベーターがあった。

 

三階建てでもベッドごと移動させるのには必要だったのだろう。

 

そのエレベーターは古い映画でしか見たことが無い、ドアの手前に 鉄製の柵が手動で横に開く扉がついていた。

 

この旧病棟に詩人の立原道造が昭和十三年に入所 翌十四年に24歳で亡くなっている。

 

当時はまだ不治の病と言われていて多くの患者が亡くなった様で、離れた場所には火葬場もあったそうだ。

 

そんな いわれから閉所となった頃から幽霊を見たとの 噂が絶えず、昼間でも薄暗い此処には誰も近寄らなかった。

 

こんな写真しか残っていなかったが旧、旧病棟の非常階段にて。

 

映っているのは親友の 光夫クン。

誰も来ない事を良いことに一人でこっそりギターの練習に通っていたが

 

ある時簡単に三階の屋根の上に出られる事が解り、昼食後は三時の検温の時間まで

 

屋根の上で日向ぼっこをしながらギター片手に歌を作っていた。

 

おかげで 次のような歌が出来た。

 

1970年 4月22日  「雨」

 

 

1970年4月 24日 「恋を求めて」

 

1970年 5月 27日  「めぐみちゃん」

他に楽しかった事といえば時々 慰問団が来て手品や踊りが観られた事。

 

ステージ付きの立派な講堂が有り、ピアノも置かれていた。

 

ある日、おと連れたのはテレビ「夜のヒットスタジオ」の専属オーケストラに、

 

アクシデントがあった時に替わって演奏すると言う控えの楽団でした。

 

控えと言ってもプロの演奏は 迫力満点で 特にトランペットは素晴らしかったが、余りにも音が大きくて

 

 暗幕の張っていない窓ガラスが共鳴して割れそうになり、大勢で慌てて窓を開けていました。

 

この話次に 続きます、