ナンバー 313ラーメン人生(16歳~) | 堀切光男のエッセイ畑

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主にエッセイ。

 

昭和 四十二年十六歳で 東京都足立区竹ノ塚のラーメン店に就職した小生。

 

右の先輩の中華白衣がダサクて洋食のコック白衣を自前で買って着ている。

 

かなり自己チューであったようだ。

 

どうして中学を卒業して直ぐ ラーメン店に就職したのかはこのブログの

 

「ナンバー 21 ビートルズに憧れてラーメン屋になった」に詳しく書いてありますが、

 

要するにまだ15歳の当時、中学卒業の半年前から就職先を探しますが、

 

和歌山の片田舎から憧れの東京に出るのと、その年ビートルズが初来日するので

 

どうしても観たいという欲求を叶えるには就職口は ラーメン店しか無かったのでした。

 

その店の名は「珍来軒」 今はもう存在しません。

 

当時は この自転車で出前。

 

左手に多い時はラーメン十人前を出前箱に入れ右手で片手ハンドルで運ぶ。

 

重さは10キロ近くもあっただろうと思われるが 10分以上もかかって届ける事もあった。

 

 

現在はラップと呼ぶ薄いフイルムで完璧にラッピング出来るが、この頃は何もなし。

 

ラーメンのスープはこぼれほうだい。

 

そのためにズンドウに醤油を割ったスープを持って行き、汁が少なくなった丼に

 

そのスープを足して行く。

 

それでも足りないと玄関先で全部丼を並べ出前箱の中にこぼれた汁を丼に戻し

 

再び出前箱の中に入れると何食わぬ顔で「お待ちどうー」とドアを開けるのでした。

 

その後ほどなく、プラスチック製の蓋が出まわり、丼に押し付けると空気が抜け

 

中の吸盤が吸いつき汁がもれないという工夫がされたが、余り性能は良くなかった。

 

次に出たのが頭にかぶるナイトキャップみたいにゴムが付いていて すっぽり丼にかぶせるビニール。

 

これも今一つで汁もれがした。

 

現在は薄いラップが出回り 汁がこぼれる事はまず無い。

 

 

就職したばかりの十六歳。

 

かなりつっぱっていた様子。

 

この頃は炒め物等の ガスは石油との混合。

 

麺を茹でる大なべの火はコークス(クズ 石炭)を送風機(ヘアドライヤーを大きくした様な形)で起こしていた。

 

業務用の冷蔵庫はあったのですが、冷凍庫は無かったので基本 その日の精肉類は朝、肉屋に仕入れに行く。

 

朝七時 店の親父が厨房でスイッチを入れると2階の従業員部屋のベル(昔 駅にあった様な発車ベルで

 

けたたましい音がした)でたたき起こされる。

 

顔を洗う暇も無く、自転車で肉屋に行きその日の豚こま肉(当時は焼肉や生姜焼きは洋食で中華屋には存在せず)

 

を1キロと豚ガラ5キロを仕入れて来る。

 

ガラは直に湯がいてからスープをとる。最低でも二時間は煮込ま無いとスープは出ないので

 

朝は時間との戦いだ。

 

10時半にやっと仕込みを終え朝飯 となるが、一番忙しい日曜日は11時の開店を待たずに

 

どんどん出前の注文が入るので、朝飯は 午後の三時頃にやっと食べられるといった事が多かった。

 

その辺の話は「ナンバー35 ラーメンは森の石松で」に書いています。

 

三時からの休憩時間に。 右の店の息子とは年が同じで気があった。

 

もう一人の17歳の従業員の「おんちゃん」を誘ってこの息子と三人で隣町の西新井にあった

 

「関西 ストリップ」を観に行こうと 自転車で休みの日の夜に出かけた事があった。

 

線路沿いの道が続いて居て三台の自転車でまだ見ぬストリップへの期待感一杯で

 

自転車を 漕いで行くと何とその道は途中で行き止まり、工事中となっていた。

 

結局それで諦めて 帰路についたのだが ストリップ劇場にたどり着けたとしても

 

今にして思えば 17歳の三人が入場出来たとも思われないが、何を考えていたのやら

 

ほろ苦い「青春 ポルノ グラフテイー」(?)の思い出だ。

 

 

ラーメンスープが五十円、野菜スープが八十円、

 

五目冷しが百八十円。

 

ラーメンは八十円だったので 約現在の五分の一の価格だった。

 

初任給は八千円だが、住み込みなので食費も家賃も無くまあまあの額。

 

見習いの三か月が過ぎたら 一万円に上げて貰えた。

 

十六歳で手取りが今に直すと5万円ぐらい。現在の物価だと少ないが当時では

 

平均的な給料だった。

 

ちなみにこの店は割烹料理店も隣で経営しており、そこの板前さんは

 

5万円の給料取り、あこがれでした。