峠から見たオラが村 村の真ん中に小高い丘がある。
地図の 山手村にある黄色い線が町道ですが、その内側が全部 丘です。
木が生い茂り上野公園がすっぽり入る程、かなり広い。
今風に言うと東京ドーム十個分以上です。
村の男の子、総勢二十人が半分に別れ、この丘の籠城組とそれを攻める組の
壮大な チャンバラごっこが時々行われた。
合戦は 冬休み中に行われ、朝の十時から日没近い五時まで、握り飯を兵糧として、
野山を駆け回る壮絶な戦いが繰りかえされたのでした。
年上のガキ大将が籠城組で、攻め手の大将は殆ど小生がつとめましたが
信長の「桶狭間」の戦い、あれは殆ど天候が味方してくれたのですね。
何回か真似をして奇襲をかけたのですがことごとく失敗しました。
敵に察知されてしまうのです。
斬られても百まで数えたら生き返るという、ゾンビ ルールがあります。
一方どちらかの大将が討ち死にすると勝敗が決まります。
大将はとにかく一人になっても家来たちが生き返るまでは逃げ回るという
過酷な使命を背負っています。 小生の逃げの奧 技は棚田の三メートルの石垣を
飛び降りる技。下は刈り終えた田んぼで 柔らかいので勇気さえあれば飛べます。
ただ着地した時に自分の両膝で自分の顎を打たないように注意しないと
舌を噛んでしまいます。 命がけです。
追っ手は飛び降りることが出来ず何度も命拾いをしました。
尚、合戦の勝敗は一度もついていません。
正面の山は(地図測量用の) 三角点 があったので「三角点」と呼んでいた。
昭和三十三年頃初めてテレビが村にやって来た時、アンテナはこの山の
頂上に建てられ麓の村までケーブルが引かれた。
下 、上の写真の反対側 丘の麓から村を見下ろす。 何にも ない。
このブログ最初の三角点という山の写真は 上の地図では C の地点です
この山に小学校の登山遠足で登った事が有ります。
関東出身の妻は登山遠足は筑波山だったそうで、少しコンプレックスを感じました。
一旦、上方の隣村にある小学校に登校し,一時間かけて生家のある山手村に
戻って来ます。 そこから標高は三百三十メートル,高さは東京タワーと同じですが
斜めに九十九(つづら)折りを登って行くと距離は五キロ程はあると思います。
もちろん自転車も通れない山道です。
子供の足では小学校から三時間はかかったとして、丁度お昼頃には登頂出来たと思われます。
頂からは 遠く海が望め、絶景をおかずに お弁当を食べました。
その小学生の頃、同級生の女の子二人が D地点の村から学校に通っていた。
私の村より更に二時間かけてこの 山の向こうから小学校に通っていた訳です。
下校の冬の六時頃は山道は真っ暗です。
「懐中電灯持っているのよ」と見せてくれた その女の子は帰りの山道でイノシシにも
何回も出くわしているそうで、それを聞いた私は尊敬の念で一杯になったものでした。
その村は 「猿 川」と呼ばれており、三軒の家が有りました。
その内の二軒が同級生の女の子二人の家でした。
ところで、近所の同級生の男の子の親父は郵便局員で、配達業務をしています。
時々、その猿川村に郵便物が来ます。するとその親父。自分では配達するのが
おっくうで息子に三十円で業務の丸投げをします。
往復四時間の山越えだから気持ちは解りますが。
現在それがバレたら大ごとと成りますが、当時 はゆるいもので、バレもしなかった。
その息子も一人で届けるには かったるい。
そこで私に 二十円で同行を持ち掛ける。
三十円の内の二十円を寄こすという同級生の胸の内も察して付き合って
やったものです。
話を戻して、
登山遠足でこの山に来た担任の先生、その先にある 猿川村に、この機会にと
初めて教え子の二軒の家を家庭訪問しました。
三角点の上方に 尾根伝いに行くとススキのカヤが生い茂った原があり、
カヤを踏み倒したイノシシの住みかが有りました。
鼻がいいので、近づくと逃げてしまって住人の姿を見た事は有りません。
そこから山を下ると「猪 ノ 谷」と呼ぶ谷である事からも頻繁に山を下りて来ては
農作物を荒らしていたのでしょう、畑から少し入った杉林の中にシシ除けの
石垣が二百メートルにわたって築かれています。
以前 テレビの番組で謎の建築物と紹介していましたが、何百年も昔に築かれた
石垣の猪除けで 間違い無いでしょう。
下 大きな猪の 剥製
戦国武将の鎧には小さな装飾の穴が沢山開けられていますが、色々な形が有ります。
その一つに♡ 型が有りますがこれは、ハート型ではなく 「イ ノ目」といい
猪の目尻を型どったものだそうです。
上の猪の可愛い目を見ていると 解るような気がします。
上 忍 城で鎧 兜を着けさせて貰らって、 ご機嫌の 筆者




