おまじないコブラはじめました。 -120ページ目

おまじないコブラはじめました。

河内美雪さんの『借金王キャッシュ』好きが昂じてこのようなタイトルをつけましたが、中身は数学オタク中年乙女のボヤキです。悪しからず御了承くださいませm(_ _)m

科学的考証とかできてないため、ウンチクは話半分で読んでください。

訳あって長く退屈な安静の只中にあり、平日の昼間からブログを書いてます。訳についてはご縁があればのちほど。



さておき、数日前テレビを見ていると、日系ブラジル人のお子様を多く受け入れされている小学校の取り組みが紹介されておりました。

言語文化風習などが違う場所から来た彼らは、雨が降ったり言葉がわからなかったり、その他様々な要因で学校を休んでしまい、学習の機会を失いがちになるそうで、そういう子供たちをいかに学校に馴染ませるか、というような主旨だったと記憶しています。

学習の機会の均等への取り組み自体は素晴らしいと思うのですが、ちょっとムムム…と感じた場面がありましたので、それについて綴りたいと思います。



ブラジルからやって来て半年の少年、仮にカルロス君(小5)としましょうか(←こんなベタな名前しか思いつかないぐらい、日系ブラジル人に縁がない)は、その日で三日連続名札を忘れてきました。

そこで、担任の先生は指導をします。

「名札を忘れてきたかわりにどーする?」

と問われ、結局カルロス君は、休み時間や放課後にしていた、大好きなサッカーをその日我慢することにしました。

こうして、彼は日本のルールに馴染んでいくのでした。




って、ちょっとまって。ナニソレ⁉

いろいろおかしくない?

まず、名札を忘れてきたことへの指導の第一歩は

『名札が何故必要かを説明し理解させる』じゃないの?

その上で

『どうしたら忘れないか考えよう』でしょ?


既に三日目であることを考慮しても

『何故必要かの再確認』からの

『昨日までの対策の問題点の振り返り』があって、本人がどうするかを決める流れで

「罰則があったら忘れないと思うから今日サッカー我慢する(明日忘れたら明日もそうする=たぶんサッカーしたいから忘れない)」

と本人が言ったのならまだ理解できるのですが、編集の魔物がそこに潜んでいたのか、全くそのようには見えませんでした。



編集の魔物は本当に恐ろしいものですから、担任の先生の指導が本当のところどうだったのかはもはや不明ですが、少なくとも、この番組を編集した人とこの内容で放送することをよしとした放送局は

『決まりを守らなかった者に(自)罰を受けるという代償を払わせることが指導である』

と思っていると見受けられます。

ワタクシの思うに、それは指導としては最もマズイ類いのヤツです。

そんな日本の習慣、むしろ慣れたらアカン!




失敗も間違いもウッカリも誰にでもあることです。

そして、その失敗や間違いやウッカリのリカバリーは、失敗したり間違ったりウッカリしてできなかったことをいろんな方法で完遂するしかないのです。

例えば、取引先に異品納入してしまった場合、手を尽くして最短で正規品を再納入するしかないのです。

異品納入が発覚した際、ともかく相手(取引先担当者)の元に駆け寄り

「申し訳ございません」といくら地面に頭を擦り付けようが

「これでご勘弁を」と女子に人気のパティスリーのスイーツを持っていこうが

相手にとっては

「なんじゃそりゃ!」

以外のなにものでもありません。

深々と頭を下げる詫びの仕草や手土産は、再納入を完遂したあとに再発防止策と共に持参するものなのです。




こんな単純なことが、こと『教育』という言葉の下では忘れられがちな印象があります。

お子様に「自分が悪いことをした」と自覚させることに重きを置かれ過ぎてるのでしょうか。

先生の責めから早く逃れたい一心(=そう思うことが自分が反省しているということだという錯視を起こしている可能性もある)で自罰を差し出す、そんなことが積み重なっていくと、先々どんな大人になっていくのか、などと思うのは杞憂でしょうか。

そんな風に大人になった夫が、何回言っても物事の本質を取り合わず、やたらと趣味の良くないプレゼントをご機嫌伺いよろしく買って来るようなら、ワタクシはたぶん気が狂います(←こんなのはまだまだ可愛い方でしょうが)。




世の中には、どうしても取り返しがつかないことというのも確かに存在します。

そのときには、どんな詫びの言葉も代償行為も自罰も無力です。無力でも、全力で詫びるなり代償を払うなり罰を受けるなりして、なお払いきれぬ重いものを背負うしかないです。

誰もがそうなりうる、というのはありますが、そのときのために詫びることや罰を受けることに慣れたってあまり意味がないし、そこまででもない大多数のことには、やたらごめんなさいと思うよりも、ごめんなさいと思ったらそこからどうするか、イマジネーションのかぎりを尽くして考え、行動する子供がより多く育ってほしいと願っています。

そして、そういう子らに助言を惜しまない大人でいたいと、改めて思った次第です。





【余談】
そもそも、名札ってなんで必要なの?誰のため?

児童の安全の為にはむしろ校外では危険因子だよね。あぶない大人に名前で呼ばれて、知ってる人だと思ってしまうとか。

登校中は付けたら駄目で、学校に毎日持って来いって、そりゃ、小学生は忘れるわ~
校内で先生が必要なら校内で管理すれば?

という、どうでもいい決まりに対する個人的な反発も、あの『指導』への違和感なのですがね。



十代の終わり頃に出会った、谷川俊太郎さんの詩『うそ』の一節

『いっていることはうそでも
  うそをつくきもちはほんとうなんだ
  うそでしかいえないほんとうのことがある』

人を信じるかどうかの選択を迫られるとき、この一節を思い出します。

そして、信じると決めたとき「(仮に事実に反していても)相手が言っている気持ちは本当なのだろうな」ぐらいの距離感を保っていたいと思っています。

それは、信じるか信じないかを決めたのは自分だということを忘れないための、ワタクシ自身の心がけでもあります。



なんでそんなことを急に言い出したのかといえば

『自分の望み通りであるようにと相手に圧をかける=相手に「信じている」と言う』

というのを、自覚なくやっている人の姿をよく見ることに気付き、それがなかなか深刻なんでないかと思い始めたからです。

この手の「信じてる」って、わざわざ言う時点で相手を信じてない感満載ですし、言われた相手が真面目であるほど追い込まれる地獄の呪いの臭いがするし、そこには相手の希望が反映されてないこという重大な問題があります。

「あなたは良い子よね。(親の希望に沿わないことなんてしないって)信じてる」とか

「いつか私の所に戻ってきてくれるって信じてる」とか。

そのような「信じてる」にワタクシが言いたいこと。

①知らんがな
②もっと自分の人生を生きろよ
③その『信じてる』もうちょっと分類と検証してみたら?

理屈っぽい人間の言い分らしく解説しますと

①は文字以上の意味はない(解説しようもない)

②は、相手と自分の区別があまりついていないから相手をコントロールしようとするのかな、と感じる。それは、一種の相手への依存であり、過度になれば相手の人格を潰す可能性が高く、誰も得しない。他人で自己実現せず、自分でなんとかしろ。

③信じるにもいろいろある。
    ・客観的事実として信用しうると判断する
    ・自分の認識、或いは信任が誤っていたとしても「しょうがねえや」と肚を括る
    ・自分自身の希望を語る
  など。
  自分の『信じる』がどの辺の性質なのか見極めないと、結局、望み通りにならないこへとの恨み節を歌うだけになるかもしれんぞ。

てなところでしょうか。



なに言ってんだかな、コイツ。信じることは素晴らしいことなのに、それができないなんて可哀想なヤツ。

と思われる方もおられましょう。

でも、本当に『信じる』ことは闇雲にスバラシイの?ちゃんと分類されてない今の『信じる』ではどうかしら。

と、そんなに世知辛くない人生送っているのほほん中年でも思うのです。



そんな疑り深いワタクシでも、実はこの世はそんなに悪いものでもないと信じています。

なんて、どこまで本当に信じているのかね。

それは、冒頭の詩の締めくくりの言葉

『どうしてもうそがつけなくなるまで
  いつもほんとうにあこがれながら
  ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう』

ぐらいの感じかな。ということにしておきましょうかね。













先週はちょっと涼しかったのに、またサウナのタダ券の大量配給を受けたかのようなこの頃、皆様いかがお過ごしですか。

今朝起きた瞬間から微塵も爽やかさがなく、ワタクシ、つい、こんな状態に…

↑田辺誠一画伯がご自由にお使い下さいと仰ってたので貼ってみました。
もしも「そういう意味じゃない」ということでしたら謹んでお詫び申し上げます。

しかし、本日は土曜日にして天神市の日、うだうだしている暇はありません。さっさと支度をしなければ、電車に乗り遅れます。

てなわけで、

汗ニモ負ケズ
汗ニモ負ケズ
暑サニモ、台風後ノ湿気ニモ負ケズ

浴衣に着替えましたとも(グスグスなのは 散々歩き回ったあとなので御勘弁下さい)。



買ったばかりの単帯をしれっと締めてみました。ちいとばかしタレが短いですが、思惑通り、大好きな撫松庵の浴衣との相性はバッチリです。


帯留をツモリさんの土星(キラリ☆付)にしたら『時空の歪みから未確認飛行物体出現』的な愉快なテイストになり、個人的満足度MAXです。

さて、こうして気分も上がりましたので、電車(JR)地下鉄バス乗り継いで北野天満宮へ。

だがしかし、京都は暑い!レベルが違う…

ほうほうの体でなんとか上七軒の口まで歩いて、マサイの風でアイスコーヒーでビバークしておりますと、向かいになにやら見たような柄が…

なんと、今日ワタクシが着ていた浴衣
の元になったと思われる縮緬の着物が!


(拡大してみました)

思わず駆け寄って、お店の方にお声掛けしたところ、快く写真を撮らせて下さいました。


いや~、こんなミラクルな出会いもあるんですね(さすがにこれを買うと筋金入りのアホなんで見るだけでしたけどね)。