さておき、数日前テレビを見ていると、日系ブラジル人のお子様を多く受け入れされている小学校の取り組みが紹介されておりました。
言語文化風習などが違う場所から来た彼らは、雨が降ったり言葉がわからなかったり、その他様々な要因で学校を休んでしまい、学習の機会を失いがちになるそうで、そういう子供たちをいかに学校に馴染ませるか、というような主旨だったと記憶しています。
学習の機会の均等への取り組み自体は素晴らしいと思うのですが、ちょっとムムム…と感じた場面がありましたので、それについて綴りたいと思います。
ブラジルからやって来て半年の少年、仮にカルロス君(小5)としましょうか(←こんなベタな名前しか思いつかないぐらい、日系ブラジル人に縁がない)は、その日で三日連続名札を忘れてきました。
そこで、担任の先生は指導をします。
「名札を忘れてきたかわりにどーする?」
と問われ、結局カルロス君は、休み時間や放課後にしていた、大好きなサッカーをその日我慢することにしました。
こうして、彼は日本のルールに馴染んでいくのでした。
って、ちょっとまって。ナニソレ⁉
いろいろおかしくない?
まず、名札を忘れてきたことへの指導の第一歩は
『名札が何故必要かを説明し理解させる』じゃないの?
その上で
『どうしたら忘れないか考えよう』でしょ?
既に三日目であることを考慮しても
『何故必要かの再確認』からの
『昨日までの対策の問題点の振り返り』があって、本人がどうするかを決める流れで
「罰則があったら忘れないと思うから今日サッカー我慢する(明日忘れたら明日もそうする=たぶんサッカーしたいから忘れない)」
と本人が言ったのならまだ理解できるのですが、編集の魔物がそこに潜んでいたのか、全くそのようには見えませんでした。
編集の魔物は本当に恐ろしいものですから、担任の先生の指導が本当のところどうだったのかはもはや不明ですが、少なくとも、この番組を編集した人とこの内容で放送することをよしとした放送局は
『決まりを守らなかった者に(自)罰を受けるという代償を払わせることが指導である』
と思っていると見受けられます。
ワタクシの思うに、それは指導としては最もマズイ類いのヤツです。
そんな日本の習慣、むしろ慣れたらアカン!
失敗も間違いもウッカリも誰にでもあることです。
そして、その失敗や間違いやウッカリのリカバリーは、失敗したり間違ったりウッカリしてできなかったことをいろんな方法で完遂するしかないのです。
例えば、取引先に異品納入してしまった場合、手を尽くして最短で正規品を再納入するしかないのです。
異品納入が発覚した際、ともかく相手(取引先担当者)の元に駆け寄り
「申し訳ございません」といくら地面に頭を擦り付けようが
「これでご勘弁を」と女子に人気のパティスリーのスイーツを持っていこうが
相手にとっては
「なんじゃそりゃ!」
以外のなにものでもありません。
深々と頭を下げる詫びの仕草や手土産は、再納入を完遂したあとに再発防止策と共に持参するものなのです。
こんな単純なことが、こと『教育』という言葉の下では忘れられがちな印象があります。
お子様に「自分が悪いことをした」と自覚させることに重きを置かれ過ぎてるのでしょうか。
先生の責めから早く逃れたい一心(=そう思うことが自分が反省しているということだという錯視を起こしている可能性もある)で自罰を差し出す、そんなことが積み重なっていくと、先々どんな大人になっていくのか、などと思うのは杞憂でしょうか。
そんな風に大人になった夫が、何回言っても物事の本質を取り合わず、やたらと趣味の良くないプレゼントをご機嫌伺いよろしく買って来るようなら、ワタクシはたぶん気が狂います(←こんなのはまだまだ可愛い方でしょうが)。
世の中には、どうしても取り返しがつかないことというのも確かに存在します。
そのときには、どんな詫びの言葉も代償行為も自罰も無力です。無力でも、全力で詫びるなり代償を払うなり罰を受けるなりして、なお払いきれぬ重いものを背負うしかないです。
誰もがそうなりうる、というのはありますが、そのときのために詫びることや罰を受けることに慣れたってあまり意味がないし、そこまででもない大多数のことには、やたらごめんなさいと思うよりも、ごめんなさいと思ったらそこからどうするか、イマジネーションのかぎりを尽くして考え、行動する子供がより多く育ってほしいと願っています。
そして、そういう子らに助言を惜しまない大人でいたいと、改めて思った次第です。
【余談】
そもそも、名札ってなんで必要なの?誰のため?
児童の安全の為にはむしろ校外では危険因子だよね。あぶない大人に名前で呼ばれて、知ってる人だと思ってしまうとか。
登校中は付けたら駄目で、学校に毎日持って来いって、そりゃ、小学生は忘れるわ~
校内で先生が必要なら校内で管理すれば?
という、どうでもいい決まりに対する個人的な反発も、あの『指導』への違和感なのですがね。