『いっていることはうそでも
うそをつくきもちはほんとうなんだ
うそでしかいえないほんとうのことがある』
人を信じるかどうかの選択を迫られるとき、この一節を思い出します。
そして、信じると決めたとき「(仮に事実に反していても)相手が言っている気持ちは本当なのだろうな」ぐらいの距離感を保っていたいと思っています。
それは、信じるか信じないかを決めたのは自分だということを忘れないための、ワタクシ自身の心がけでもあります。
なんでそんなことを急に言い出したのかといえば
『自分の望み通りであるようにと相手に圧をかける=相手に「信じている」と言う』
というのを、自覚なくやっている人の姿をよく見ることに気付き、それがなかなか深刻なんでないかと思い始めたからです。
この手の「信じてる」って、わざわざ言う時点で相手を信じてない感満載ですし、言われた相手が真面目であるほど追い込まれる地獄の呪いの臭いがするし、そこには相手の希望が反映されてないこという重大な問題があります。
「あなたは良い子よね。(親の希望に沿わないことなんてしないって)信じてる」とか
「いつか私の所に戻ってきてくれるって信じてる」とか。
そのような「信じてる」にワタクシが言いたいこと。
①知らんがな
②もっと自分の人生を生きろよ
③その『信じてる』もうちょっと分類と検証してみたら?
理屈っぽい人間の言い分らしく解説しますと
①は文字以上の意味はない(解説しようもない)
②は、相手と自分の区別があまりついていないから相手をコントロールしようとするのかな、と感じる。それは、一種の相手への依存であり、過度になれば相手の人格を潰す可能性が高く、誰も得しない。他人で自己実現せず、自分でなんとかしろ。
③信じるにもいろいろある。
・客観的事実として信用しうると判断する
・自分の認識、或いは信任が誤っていたとしても「しょうがねえや」と肚を括る
・自分自身の希望を語る
など。
自分の『信じる』がどの辺の性質なのか見極めないと、結局、望み通りにならないこへとの恨み節を歌うだけになるかもしれんぞ。
てなところでしょうか。
なに言ってんだかな、コイツ。信じることは素晴らしいことなのに、それができないなんて可哀想なヤツ。
と思われる方もおられましょう。
でも、本当に『信じる』ことは闇雲にスバラシイの?ちゃんと分類されてない今の『信じる』ではどうかしら。
と、そんなに世知辛くない人生送っているのほほん中年でも思うのです。
そんな疑り深いワタクシでも、実はこの世はそんなに悪いものでもないと信じています。
なんて、どこまで本当に信じているのかね。
それは、冒頭の詩の締めくくりの言葉
『どうしてもうそがつけなくなるまで
いつもほんとうにあこがれながら
ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう』
ぐらいの感じかな。ということにしておきましょうかね。