帰り道を変えてみただけで

ちょっと未来まで明るくなった気がしたんだ

もしかしたら

何気ない日常の中にも

未来の方向が変わる瞬間って隠れているのかもしれない


そんなことを思わせてくれた


今日の午後の小さな出来事気づき



今日娘の進路面談があって


午後からお休みもらったんだ


で、ちょっと時間があったから


ふらっとカフェに寄って

ランチしてきたんだよね


はじめて食べたトルティーヤOK

なんか、もっと軽いものかと思ったら

意外とボリュームあって満たされた〜おねがい


でも味はあっさりで


めっちゃ食べやすかった飛び出すハート


「へぇ、メキシコ料理ってこういう感じなんだ〜」って


ちょっと新世界をのぞいた気分


そのあと、ちょっと街をぶらぶらしてみたら


いつも通らない道とか


新しくできてたお店とか見つけて


「あ、こういうのもあるんだ」って


ちょっと気分が上がる小さな発見があったの



でね


帰り道をいつもとちょっと変えてみたら


なんかそれだけで


景色も違って見えて、新鮮だったんだよね


考えてみたら、こういう小さな選択って


毎瞬してるんだなーって思ってさ


いつもと違う方を選んでみるっていう


ちょっとした変化を積み重ねてったら


もしかしたら


未来って少しずつ変わっていくのかもしれないな〜スター


なんて思った午後でした照れ

娘の仲良しの友達がいる



小学生の頃から家を行き来して、お泊まりも何度もした



その子のママとも、ずっといい関係だった

 


でも最近



ちょっとだけ、話すと胸がザワつくようになった

 


「うちの子、ナイター練習も休まず行っててね」



「生徒会もダンスも、忙しいけど全部ちゃんとやってるの」



「家でも勉強、ほんとよくやってくれてるから助かるよ」

 

それはただの事実なんだと思う



そのママは、いわゆる“自慢”とか“マウント”とはちょっと違う



いつも自然体で



話し方も穏やかだし



私のことを否定するようなことも言わない



 

でも、私はその言葉を聞くたびに



なぜか胸の奥がきゅうっとなる



少し息が苦しくなって



「そっか…すごいね」って言いながら



心の中で沈んでいく

 


比べてしまってる



娘と、その子



そして、私自身と、そのママを

 


本当は、比べたくなんてない



娘には娘の良さがあるし



私は“無理をしない育て方”を大事にしてきた



それは今も変わっていないはずなのに…



「やっぱりこのままでいいのかな?」



「私の関わり方、甘いのかな?」



そんな不安が、ひょいっと顔を出すんだ

 


その不安を見ないふりしてると



今度はイラっとした感情が出てくる



「それ、今言う必要ある?」って



心のどこかでつぶやいてる自分がいる

 


でも



きっとその感情の奥には



「私は私で、ちゃんとやってる」って



誰かに言ってほしい気持ちがあるんだと思う



夫から? 


社会から? 


娘から?



いや


もしかしたら




私自身が自分に言ってあげたかったのかもしれない

 


「あなたは、あなたのやり方でちゃんと向き合ってるよ」って

 



近しい人との関係だからこそ



素直に比べてしまうこともあるし



ちょっとした言葉に



過剰に反応してしまうこともある



でも、そんな揺れの中に



私はずっと娘を信じてきた



私なりの愛がちゃんとあるってことも



見えてきた

 



今日はそれを、ちゃんと自分に伝えてあげたいと思う照れ

 
呼吸ワークをしているとき  
 
私は緩んでいるつもりになっていた  
 
でも最近  
 
なんとなく抜けていない場所があるような
 
違和感が残り続けていて  
 
 
どこが力んでいるのか
 
 
自分ではつかみにくかった
 
 
 
そこで漸進的筋弛緩法を試してみた  
 
 
あえて筋肉にギュッと力を入れてから
 
 
ふっと抜く方法  
 
 
やってみたら
 
 
普段は気づけなかった無意識の緊張が
 
 
浮き上がってきた  
 
 
肩こりがひどい私の場合  
 
 
肩甲骨の間や僧帽筋の上の方に
 
 
ずっと細く力が入り続けていたことに気づけた
 
 
 
さらに
 
 
肩を後ろに引いて
 
 
首を反らし
 
 
顎を天井に突き出す動きをやってみた  
 
 
その後、力を抜くと

 
首から肩にかけてのラインが
 
 
じわーっと温かくなり  
 
 
三角筋あたりまでゆるゆると
 
 
ほどけていく感覚が広がった  
 
 
首のうしろにもじんわりと温かさが流れて  
 
 
呼吸が自然に深く入ってくるのを感じた  
 
 
首の可動域や肩甲骨の動きも広がっていく  
 
 
カラダは軽くなり  
 
 
胸がひらいて気持ちまでもふっと軽くなる
 
 
 
この緩んだ瞬間が続く時間を  
 
 
繰り返しながら少しずつ長くしていけたらいいなと思う  
 
 
緩みは一気に完成するものではなく  
 
 
何度も繰り返しながら
 
 
身体が安心を学んでいくものなのかもしれない
 
 
呼吸でゆるめる日もあれば  
 
 
今日のように動きで抜け道をつくってあげた方が入りやすい日もある  
 
 
だからこそ
 
 
緩むための入り口をいくつも持っておくことは  
 
 
自分にとっての安心の選択肢を増やすことにつながると思った  
 
 
私の緩み方の持ち札がまたひとつ増えた日だった照れ
呼吸ワーク初日


力を抜くってむずかしい


一人で呼吸ワークしていたときは


ただ自分のペースで呼吸できた


終わったあと


肩がほどけて、胸が広がる感じがして


ああ、気持ちよかったなって思えた



でも、オンラインで


みんなと一緒にやったら


周りのテンポがはやくて


つい合わせてしまった


「自分のペースでいい」って


わかってるのに


負けたくない気持ちが出てきたりして


気づけば全力で頑張ってる自分がいたアセアセ


終わったあとの肩の凝りが半端なくて


しかも眉間にシワまで笑


緩めるって思ってたのに笑い


めちゃくちゃ力入ってた



周りが気になる私

合わせようとする私

勝ち負けを意識する私

「ワークをちゃんとやらなきゃ」と力む私



そんな自分に気づいた初日


緩むって

かなり意識しないとできないんだなー


それだけ無意識に力が入ってるってこと


まずは「がんばらない呼吸」を


もう一度思い出したいスター
胸の奥がギュッと締めつけられて
 
 
顔のあたりから後ろのほうまでジンジンしてくる  
 
 
肩も、気づけば力が入ってる
 
 
呼吸が浅くなって、目の奥が熱い
 
 
信じたいのに、怖くなるときがある
  
 
また、あの痛みを感じるんじゃないかって  
 
 
 
無視されたり
 
 
いなくてもいいような扱いをされたり 
 
 
どんなに想いを差し出しても、届かないことが怖い
 
 
わかってもらえない
 
 
拒絶される  
 
 
置いてけぼりにされる
 
 
そんな過去の痛みが
 
 
身体の奥でざわめく
 
 
あのときは、生きるだけで必死だった
  
 
何も感じないようにして
 
 
ただ、やり過ごすことで精一杯だった
 
 
だから今も  
 
 
心が少しでも開きそうになると
  
 
身体が先に“危ないよ”って反応する
 
 
もう、あんな思いはしたくないって 
 
 
 
でもね
 
 
ほんとうは、信じたい
 
ちゃんと繋がりたい  
 
また、あの安心を感じたい  
 
 
 
怖さの奥にあるのは
 
 
「もう一度、繋がりたい」  
 
「安心したい」  
 
「信じてみたい」  
 
そんな小さな願いなんだよね 
 
 
その声をちゃんと感じたとき
 
胸の奥のこわばりが  
 
ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした
夫婦関係を再構築していく中で
 
信じたいのに、また怖くなる瞬間ってある
 
 
 
相手のちょっとした行動に、胸がざわついたり
  
「まさか」と思う気持ちがよぎったり
 
 
今日は、そんな私の心の動きをそのまま書いてみました。
 
 
 
先週の週末、最終の新幹線で夫が帰ってきた。
 
 
娘とワンコと一緒に、駅まで迎えに行った。  
 
 
久しぶりに会えて、素直にうれしかった。  
 
 
改札を出てくる姿を見た瞬間、胸の奥があたたかくなった。
 
 
家に戻って話して、  
 
 
「明日はゆっくり過ごそうね」なんて話をしていた。  
 
 
そして翌日の午前。  
 
 
夫が「ちょっと出てくる」とだけ言って、
 
 
バイクで出かけた。  
 
 
土曜日にふらっと出かけるのはいつものこと。
 
  
きっとパチンコかな、と思いながらも、  
 
 
胸のどこかで、少しだけ引っかかっていた。
 
 
 
数時間後、夫が帰宅。  
 
 
私は、夫婦の時間を過ごしたくて、シャワーに入った。  
 
 
だからこそ、夫が同じようにシャワーを浴びたとき、  
 
 
胸がザワッとした。  
 
 
嬉しさと、不安が同時に押し寄せた。
 
 
 
まさかね
 
 
でももしそうだったら……  
 
 
そんな思いがよぎって、みぞおちがギュッとなった。  
 
 
シャワーの音が、やけに遠く感じたなー。
 
 
そのまま手をみぞおちに当てて、  
 
 
「いま、不安なんだね」って自分に言ったんだ。
 
 
ゆっくり息を吐いたら
 
 
少しずつ、力が抜けていった。
 
 
 
気づいたら、「私は私で楽しみたい」って思えてた。  
 
 
笑えて、心が軽くて、  
 
 
夫もびっくりしてた。  
 
 
そして、全然疲れなかった。
 
 
 
数日経って、涙が出た。  
 
 
ほんとは、悲しかったんだ。  
 
 
寂しかったんだ。  
 
 
2週間ぶりの再会を
 
 
一緒に喜びたかったんだ。
 
 
 
それが、届かなかったことが、ただ切なかった。
 
 
 
こんなに愛してるのに、届かなかった
 
 
 
その言葉が浮かんだ瞬間、  
 
 
胸の奥がじんわりあたたかくなった。  
 
 
あぁ、私ってこんなに愛情深いんだなぁ。 
 
 
よく頑張ったね、私。  
 
 
そう思ったら、ヨシヨシしたくなった。
 
 
 
届かなかった愛も、ちゃんとここにある。  
 
 
いまは、それを感じられる私になれた。  
 
 
そして
 
 
思うんだよね…
 
 
夫婦関係を再構築している途中って、  
 
 
何度も「あれ?」って疑ってしまうこと、ない?
 
 
信じたいのに、また怖くなる。  
 
 
それでも、何度でも自分に戻る。  
 
 
その繰り返しの中で、  
 
 
少しずつ“信じる私”が育っていくのかもしれない。
 
 
 
そしてね
 
もうひとつ思うんだ。
 
 
自分の中に浮かんでくる感情を
 
「こんな気持ちになっちゃダメ」
 
と押さえ込むんじゃなく
 
 
「これが今の私なんだね」とみてあげること。
 
 
その正直さこそが、再び愛を感じる力になる。
 
 
私はこれからも正直な私で歩いていきたいな
 
連休中は、夫が帰省していて

娘と3人で久々にテニスにも行った


けれど

思いがけず悲しい知らせがあり

夫の親族の方のお通夜と告別式に参列した


そのおじさんは

夫が実家のことで悩んでいた時に

よく相談に乗ってくれていた人


夫にとっては

早くに亡くした父親のような存在でもあり

よき理解者でもあった



だからこそ

この別れは夫にとっても深く

私も何度も涙がこぼれた

ヘビースモーカーで肺がんを患い

やがて食道がんに転移


ここ数年は

口から食べることができず

胃ろうで栄養を摂っていたそう


それでも

最後まで家族に囲まれて過ごされたと聞いた


お孫さんの挨拶では

「頑固だけど、愛情深いおじいちゃん
あの世では、美味しい寿司を食べて、魚釣りにも行ってね」  


という言葉に、涙腺が崩壊した


そして、住職さんが話してくださったエピソード


おじさんは農業をしていて

転院するときに「寄ってほしいところがある」と言ったそう

それは、長年手をかけてきた畑


息子さんが作っている畑を見て

「おー、よく作ってるじゃん」と言ったんだって


それを聞いて、また涙がこぼれた


本当に畑が好きだったんだな


そして、自分の大切にしてきたものを

息子が引き継いでくれていることに


きっと安心して

嬉しかったんだろうなって思った



食べられることのありがたさ


行きたいところに行けることのありがたさ


明日が来ることを疑わない日々の尊さ


そして、家族や親族に大切にされることの幸せ




帰り道、夫と  


「どう生きて、どう死を迎えたいか」  


「親が元気なうちに、もっと会いたいね」  


そんな話をゆっくりできたのも、よかった



私はふと


自分に問いかけてみたんだスター


死ぬ間際、何を見たいだろう?  

何を感じたいだろう?


どう過ごしたいだろう?


答えは出なくてもいい


でも


こうして問い続けること自体が

生きることの一部なのかもしれない



慌ただしい連休だったけど


心には静かな余韻が残った照れ
連休は、長期出張中の夫が帰ってきたんだ


やっぱり、隣にいるっていいねおねがい


同じ家の中にいて


一緒にごはんを食べて


顔を見て話して


それだけで、なんだか安心する


家族そろって過ごす時間って


やっぱりいいなぁおねがい



そして、部活を引退した娘が


「久しぶりにテニスしたいっキラキラ」と言い出して



家族3人でテニスコートへ



10月なのに、日中は30℃超え


暑い、眩しい、


そして…走れない笑


いや〜、びっくりするほど足が動かないおいで



しかも、ボールも全然思う方向に飛ばない


あれ?


半年前くらいまではもう少し打ててたはずなのに…?


夫も私も


元テニス経験者のはずなんだけどなぁ泣き笑い


お互い、動けなさに大笑い



それでも、汗だくになりながら


笑いっぱなしの時間だった


夫と私がペアになっても


娘にはまったく敵わず


「お母さん、遅い〜!」って言われながら


息も上がって、ラケット持つ手もプルプル



「高校でもテニスしたいな」って話す娘


受験まであと少し、がんばれー拍手



そして私はというと…


筋肉痛、すでにきてます笑い泣き


でも、家族で汗を流せた時間


それだけで大満足の休日だったおねがい
昨日のインスタライブで


「人任せ」「被害者意識」について話されていた方がいた


うまくいかないとき


つい人のせいにしたり


状況のせいにしていた自分に気づく


あぁ、私もそうだなぁって



妹との連絡も、親との関係も


相手からの声かけを待っていた


優しさのようでいて、どこか怖かった


嫌われたくない、失礼になりたくない


そんな思いの奥には


“どうせ私は…”という小さな諦めと


“私は悪くない”と相手を悪者にして


守ってきた自分がいた



たぶん私は


傷つきたくなかったし


惨めさを感じたくなかったんだと思う


そうやって自分を守ってきた


誰かに共感してもらえたら安心できた


でも、その安心は、ほんの一瞬のものだった



昨日のライブで聞いた  


「行動してみて気づくこと」  


「失敗しても、惨めさや力のなさを認めること」

  
という言葉が 


心にすとんと落ちた


失敗を恐れて動かないより


たとえうまくいかなくても


気づけることの方がずっといい


自分を守るために閉じていた扉を


少しずつ開いてみようと思えた



人のせいにしたくなるときほど


「私はどうありたい?」って


自分に聞いてみよう


完璧じゃなくていい


怖くても、正直でありたい


そんな自分を選ぶたび


世界が少しずつ


明るくなる気がする
呼吸ワークを続けてきて


すこーしずつ“身体の声”が聴こえるようになってきた気がする


胸が固いとき、呼吸が浅いとき


その奥にはちゃんと気持ちがある


不安や焦り、がんばりすぎ


全部、身体が先にサインを出してくれてる



でも最近思うんだよね


呼吸だけじゃ届かない


もっと深いところに何かがある気がして


そこで出会ったのが、MOMED(モメッド)


正直、まだよくわからない


「身体を開く」ってどういうことなんだろう


「魂のズレを感じる」って、どんな感覚なんだろう


説明を聞いても


頭ではピンとこないけど


なぜか“身体のほう”が反応した


やってみたいキラキラ


感じてみたいってキラキラ



MOMEDでは


音や呼吸、動きを通して


身体そのものが記憶している


“なにか”を解放するらしい



壊れる前に気づける——


そんな言葉にも、心が動いた


半年間、MOMEDを続けてみようと思う


どんな身体の反応が出るのか


何が変わっていくのか


理屈じゃなくて、体感で知りたい


開くって、どんな感覚なんだろう


それを、自分の身体で確かめてみたい


今はまだ


まっさらなスタート地点


だからこそ


小さな変化も、丁寧に感じていこうと思う


そしてこの半年で


いいことも

悪いことも


起きても


ちゃんと戻ってこられる身体を育てたい


失敗を恐れず


揺れても


また


中心に戻ってこれる——


しなやかなカラダ


そのために


まずは身体をゆるめること


そして、丹田に意識をおろして


自分の軸を感じること



思考よりも、感情よりも


先に身体が整えば


心は自然と静かになっていく


この感覚を

少しずつ

自分の中に根づかせていきたい