テレビで安藤光雄さんという画家が

 

空想すること、絵本とは大人が子どもに

読み聞かせして、安心させると

 

自分たちもなぜか安心する。

というようなことを、笑っておっしゃっていました。

 

 

もう少し詳しく言うと

 

安藤さんがお家が貧乏で

 

弟さんに嘘なんですけど、こう言ったんです

 

うちは貧乏に見えるだろ?

でもなこう見えて実は地下室があるんだ。

そこには金銀財宝がしまわれている。

 

すると弟さんは

そうなんだ!と安心されたそうです笑

 

そして面白いところが

安藤さん自身も、弟さんが安心して

自分も安心したというのです笑

 

 

実際にはそんな地下室はないのだけど

 

信じて安心する。

 

 

そんなのないもん!と言ってしまえば

それはその通りなのですが

 

 

解釈をやわらかくしてみれば

 

確かに表だって豊かなものは目に見えてはないけれど

目に見えないところで

金銀ざいほうにも値する

何か心の豊かさのようなものがあるんだよ

 

そうもとらえられるのかと思います。

 

 

そう考えると

あまり目に見えて、あるとかないとか

はっきりさせずに

 

きっと何かあると思って

日々生きていくのもいいのかもしれません。

 

 

あと、はっきり言えるのは

だれかを安心されることをしたら

自分がなぜか安心するということは

大事な発見。

自分自身の持っている能力が

 

生きていると感じられる瞬間は

 

身体の病気になって

 

快方へ向かいだしたときに

心地よく、ありがたさもあり、うれしいものだと思います。

 

 

心のことでもそうで

 

うつ病になったり

ひどい感情に毎日さいなまれたり

 

それもあってか頭もいたい

 

そんな状態の中で

 

心が動くというか

自分の中にこんな感動する能力が

 

自然な感覚があったんだ

 

そう気づき、自分に再び触れるような感覚があるとき

 

とてもうれしいものだと思います。

 

 

実は自分が思っている以上に

 

人間として

見えないところでは

 

まだまだ生きているようです。

自分のこともそうですが

 

生きもの、他人との関係で

 

相手を大切にするから

お互いにいい関係でいられる。

 

 

でもそれが単純なようで

難しい。

 

 

命として

単独で生きていると行くことは珍しく

 

どこかでだれかの命を頂いている。

 

例えば親との関係で

 

苦しみながら生きることもある。

だけどそのすべてが毒ということでもなく

 

与えられたものがある。

とてつもない憎しみに駆られることがあっても

 

きのこが木にくっついて栄養をもらおうとしたときに

木から毒をもらったようなもので

 

それは嫌だけど

その時はそうするしかなかった。

 

でもその毒っていうものが

消化しきれないまま苦しくて死んでしまうこともあると思うけど

 

毒に耐えて生き延びたのなら

それはそれで称賛されることであるかもしれない。

 

 

だけど、家庭の中のことって自分ではそれが普通だと思っているから

あまり賞賛すべきことなんて思わないでしょう。

 

 

だから、まだ死にたくても

次の日に望みをかける価値はあるのだと思います。

 

そこには

今の自信の住み慣れた世界観から外れたところに

希望があるという意味もあります。