古い家を売り、引っ越しに伴う家財道具の整理のため二十年ぶりに故郷へ帰った僕は、幼馴染の閏土(ルントウ)と再会した。大笊を仕掛けて鳥を捕まえ、夏には海で貝殻を集め、月夜にはスイカ畑の番をする閏土は、幼い僕の憧れだった。久しぶりに見た彼だったが、一目で閏土だとわかった。しかし、「旦那様!……」と声を掛けられた僕は……。
「故郷」
子どもの頃は気づきもしなかった互いの貧富の差を、大人になった閏土の呼びかけで初めて認識するお坊ちゃまの僕。
憧れのまなざしで見ていた少年の卑屈とも思える態度に、彼のおかれた環境を憂い、引っ越しで出た不用品を譲る僕。
そんな僕の目を盗むようにして密かに食器類を灰の中に隠し、自分の物にしようとした彼に複雑な思いを抱く僕。
そして、かつての自分たちを彷彿とさせる甥の宏児(ホンアル)と閏土の五男:水生(シュイション)を目にし、彼らに自分と同じ思いをさせたくないと自らの役目を再認識する僕。
これは、やはり名作だなと思います。
そして、夏川草介の『始まりの木』でも言及されていたこちらも名文。
僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
姓名本籍もあいまいで、家も持たず定職もない阿Qは、誰からも馬鹿にされていた。しかし、元来、自惚れが強く、「昔は金持ち」で、見識豊かな「働き者」だと自負していた。そして、人から笑いものにされても独自に見出した精神的勝利法を駆使し、あるいは自らを卑下しながら日々をやり過ごしていた。そんな屈辱を屈辱とも思わない日々の中、革命の噂を耳にし、身を投じることを夢想した阿Qを待ち受けていた運命は……。
「阿Q正伝」
何をやらせてもダメダメな阿Q。
なのに、向上心も持たず、都合の良い言い訳に自らを甘やかせ、のらりくらりと日々を重ねていく阿Qに、町田康の『告白』の熊太郎を重ねていました。
しかし、ちょっと違った。
ここでの愚か者は、阿Qだけではありませんでした。
寄ってたかって阿Qを馬鹿にする周りの人々もまた、似たり寄ったりの愚者だったのが、ラスト五行でダメ出しされます。
この五行のために、阿Qのダメダメぶりが描かれていたんだろうな。
実は、誰もかれもが目糞鼻糞、五十歩百歩。
革命を前に、前途多難な先行きを案じる作者の心情が、胸に痛い作品でした。
上記二篇を含む『吶喊(とっかん)』から七篇、エッセイ集『朝花夕捨(ちょうかせきしゅう)』から六篇、そして巻末には付録として、再び『吶喊』から三篇が収録されています。
「吶喊」とは、鬨の声を上げること。
革命時代に生きた作家だけに、そこにも作品に込められた思いを読みとることができます。
かりに鉄の部屋があって、まったく窓もなくどうやっても壊せないやつで、その中では大勢の人が熟睡しており、まもなく窒息してしまうが、昏睡から死滅へと至るのだから、死に行く悲しみは感じやしない。いま君が大声をあげて、少しは意識のある数人の人をたたき起こしたら、この不幸な少数派に救いようのない臨終の苦しみを与えることになるわけで、君は彼らにすまないとは思わないかい?
しかし数人が起きたからには、この鉄の部屋を壊す希望が絶対ないとは言えないだろう
この葛藤から生まれたのが、『狂人日記』なのだそうです。
中学時代の良友である某兄弟の弟が、精神を患い快復したことを知った。当時の弟の日記を進呈され、医家の研究に供したいと抄録した。荒唐無稽の彼の日記には、兄をはじめ周りの人みんなが人食いで、自分を食おうとねらっており、自分に届けられる食事にも、魚か人かわからないものが……。
「狂人日記」
こんなふうに始まる「狂人日記」は、一見、精神を病んだ人の妄想が書き連ねられているように見えます。
しかし、先の序文を読んでいると、メタファにしか思えません。
今すぐ改めさえすれば、みんな楽しく暮らせるんです。昔からそうだったにせよ、僕たちは今日こそは真っ当になろうとがんばって、だめだ! と言うんです。
しかし、この訴えは、知らぬまに自分もまた、人を食べたのかもしれないという疑惑に捉えられ、果たして人食いをしたことのない子供はいるのだろうかとの疑念も捨てられず、子供を救ってくれという叫びで終わっています。
物理的な”人食い”ではなく、精神的なそれを憂える作品でした。
【おまけ】
◆「閑話休題 言帰正伝」
「それはさておき、ほんすじにもどりまして」とルビがふってあります。
「閑話休題」はよく聞きますが、「言帰正伝(げんきせいでん)」が省略されていたとは知りませんでした。
閑話休題、言帰正伝、『阿Q正伝』の「正伝」は、こちらから採ったそうです。
さっそく、使っちゃった。