「胡蝶の夢」とか「朝三暮四」とかしか知らない荘子の世界を、ちょっぴり覗いてみました。
「夫れ言とは風波なり」人間世篇
人の考えや言葉というものは、言葉は風や波のように一定せず当てにならないものだから、どっちだってよい。
聡明
「聡」とは、耳からの情報に敏感であること。
「明」とは、目からの情報に敏感であること。
しかし、感覚を信じてはいけない。
括淡無為に生じる直観力が大切。
進歩ではなく、本質に戻る退歩をしなければいけない。
しあわせ
本来、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかったという意で、自分の意志で計画するのではなく、受け身の結果得るもの。
漢字で書くと、
「為合」(奈良時代)…「為(するという動詞)の主語は「天」
↓ 表記の変化
「仕合」(室町時代)…「仕」の主語は「人」
「不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ」 応帝王篇
「遊ぶ」と言う動詞は、「神」しか使えなかったそうです。
まぁ、神さまなら、遊んでて大丈夫でしょうが。。。
人はねぇ。
などと、なんだかよく解らない紹介です。
これ、ヤバいやつ。。。
「樗櫟(ちょれき)」
樗(オウチ)と櫟(クヌギ)のことで、役に立たない「無用」のもののことを言うそうです。
樗は、瘤だらけで小枝も曲がりくねっていて建材にならない。
櫟はというと、船にすれば沈むし、棺桶を作ると腐るし、家具にしても壊れやすくて、建材に使っても脂がでる。
二つとも人間にとっては役立たずの木らしいです。
しかし、役に立たないからこそ、長生きできて大木になれるのだとも。
独活の大木も一緒やね。
「うど」ってこんな字書くんや。
なるほど。
まぁ、考えてみれば、役に立つ立たないというのは、人間の都合であって、木にしてみれば、そのため折られて切られてって迷惑な話です。
雑木林が、豊かな生態系を育てるってこともあるしね。
「至徳の世」馬蹄篇
人間も鳥獣もなにもかもが、それぞれの「もちまえ」を発揮し、仲良く同居している状態。
これは良いな。
「万物斉同」
混沌たる非存在である「道」とは、いまだ何も存在しておらず、「無」に等しい。
「無」に等しいということは、みな斉しい=「斉同」。
その「斉同」である「無」から「万物」が生まれてくる。
ならば、全てのものは、また斉しい。
わかったようなワカランような。。。
まぁ、無ではないけど、分解すると水素・酸素・窒素・炭素……と、構成物は同じ。
確かに斉しい。
「天鈞(天均)」と「天倪」
「天鈞」とは、天から見れば全てのものはつりあっている。
「天倪」とは、天の高さから眺めれば、区別や対立などというものは、ちっぽけで、つまらないものになるという意味。
上から目線も使いよう。
中途半端やと、しょうもないことになるけど、もっともっと上から見てみましょう。
蔓延を懐く
「蔓延」とは無窮の変化。
「懐く」とは、待たず、論ぜず、弁ぜずという態度。
分類すれば、必ず分類されないものが残り、区別すれば区別されないものが残ります。
そんな不完全な人為を加えず、すべてをそのまま胸に収めてしまうのがブラックホール「聖人」なのだと。
深いね。
深すぎてヤバいです、ブラックホール。
久しぶりに、頭がピーマン、脳がウニ(もはや、どちらも死語。今はどーゆーのかなぁ)になりました。
所詮100分ではムリ。
理解できんでしょ。
何故か、ふと「マガタ・シキ」のことが頭に浮かびました。
そんな中、素直に納得できて、カッコいいなと思ったのが、こちらです。
吾れ天地を以て棺槨(かんかく)と為し、日月を以て連壁と為し、星辰を珠璣(しゅき)と為し、万物を齎送(しそう)と為す。吾が装具、豈に備わらざらんや。何を以てか此れに加えんと。
列御寇(れつぎょこう)篇
【おまけ】
「座馳」人間世(ジンカンセイ)篇
座って我を忘れる「坐忘」に対し、座っていても心が走り回っている状態。
一見静かでも、実は落ち着きのない我が身を反省。