
私は乏しい脳力をフル回転させて、人生最大の勝負にでた。まず、先生との関係性の中で私の位置をどこに置くかを考えた。3次元ではなく4次元、先生のこれまでとこれからの歴史の中での、私の目指すポジションを設定する。私にとって先生は通過するだけの地点に過ぎないが、先生にとって、私は消すことのできない存在になる。これからの彼の人生に私は決定的な影響を及ぼすのだ、と決心した。これが戦略目的である。
戦略から戦術が生まれる。遠大な戦略からは瑣末な戦術は導き出されない。ゼミの同級生や上級生など、ライバルにならない。そんなのをライバルだと思っていたら、先生のちょっとした歓心をかうことのあれこればかりに神経を遣って、私の戦略目標を見失ってしまうだろう。ライバルは(今のところ)奥様だけにすぎない。であれば、奥様のお使いになった真逆の戦術でいくしかない。
2年次の先生の講義『新古今集特講』では徹底的に反抗し、プレゼミでは信じられないくらい従順にふるまった。落差の大きさに驚いた彼に「なぜだ?」と興味をひかせようという発想で、幼稚だった私なりに考えた戦術だった。
いまも覚えているのは、外に梅雨のはしりの雨が降って暗かった午後の教室でのこと。先生が西行の、
年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
を、「もう一度越えることになるとは思いもしなかったこの難所を、この齢になって今、私は越えている、あぁ命なんだなぁ、小夜の中山の峠よ」と解釈された。私はさっと手を挙げて、「先生、質問があります。よろしいでしょうか?」と訊ねた。先生はちょっと首をかしげたが、ゆったり余裕をもって「はい。なんでしょう、石川さん」と、笑って質問を許してくれた(私の名前を覚えてもらえたわ!)。
「先生、どうして小夜の中山なんでしょう……? 小夜の中山が東海道の難所であったにせよ、最大ということではありません。箱根の坂がもっとも厳しいのは、関東を別の名で坂東──坂の東──と呼ぶことからもわかります。金谷宿と日坂宿の間という位置も中途半端です。そんな場所で命を感じるというのは、西行の側にそれなりの理由があったか、それとも場所に特別のわけがあったからかと思われますが、先生のご解釈ではそのへんがよくわかりません。そんな平板な解釈でいいのでしょうか。歌の深さについてもう少し教えていただけませんでしょうか……?」
先生は複雑な表情──困ったような、怒ったような、嬉しいような──を浮かべ、つとめて冷静な声で、こう答えられた。
「この歌の詞書には“東のかたへ、相知りたる人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりたるける、思い出てられて”とあります。なるほど、あなたの言うように、なぜ小夜の中山かは考えていい問題です。だが、西行の側にせよ場所にせよ、特別の理由を憶測することはできても、それを歌の解釈とするのはいかがなのものでしょう。解釈は作者の詞書に沿えばいい。それ以上は文学ではなく、心理学の関心事と思います。いいでしょうか、石川さん──?」
私はまだ納得がいかない振りをして、「小夜の中山は歌枕ではないでしょうか。久延寺の夜泣き石など、命冥加な伝説もあります。そうしたものを踏まえて解釈したほうがいいと思いますけど」と言い返した。
「そうですね。歌枕だし、その由来を調べるのは大切なことですよ、石川さん。でも夜泣き石の説話は、江戸末期の曲亭馬琴からが定説となっています。さかのぼっても南北朝時代とかいわれています。西行は平安末期ですよね。あと、古今集や更級日記にも小夜の中山は出てきますし、芭蕉の『野ざらし紀行』にも、西行のこの歌と杜牧の詩にふまえた句がありますよ。“馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり”というのですが、わかりますよね、石川さん──?」
私は屈辱感にうつむいて真っ赤になった。「負けるものか」と思った。