
眉間の縦皺を初めて褒められたのは、ゼミの指導教官からだった。
平安時代の古典文学を専攻するゼミで、指導教官は萩尾助教授。彼の主な研究領域が『浜松中納言物語』や『堤中納言物語』だったから、学内では“ハマチューテイチュー(浜中提中)ゼミ”と一般に呼ばれていた。私は2年次のプレゼミから萩尾先生に師事して、卒業までの3年間をどっぷり夢と幻想の世界に耽った。いや、ある人たちからは「そのままずっと覚めない夢の中に暮らしている」とも言われている。
私がはたちのころ、萩尾先生は35~6歳だった。イメージとして俳優の名前をあげるなら、豊川悦治といったところだろうか。彫りの深い思索的な風貌に、額にかかる長い髪を時折うっとうしげにかきあげるしぐさは、女子学生の胸をいとも容易くキュンとさせた。
10歳違いの奥様は私たちの大学のOGにあたり、キャンパスクイーンにも選ばれた評判のスレンダー美人で、先生のゼミの1期生だったそうだ。どっちが口説いたかははっきりしていて、言い伝えによれば、奥様は週末ともなるとよく先生のマンションの前に待ち、夜の灯りがともるまで佇んでいたそうである。なにを叫ぶでもない、ただ黙って立ちつくして声がかるのを待つ。でもその瞳は強い意志で妖しい輝きを放っていたに違いない。きっとゼミの空間でも、なにを語るでもなく、ただじっと先生の唇元(くちもと)を凝視していたのだろう。そんな情況に立ち至ったら、男はなにを思うのだろう──?
萩尾ゼミにはもうひとつ、囁かれる通称があった。“萩の局”という。なぜって、ゼミは先生を慕ってくる女の子たちであたかも後宮、せまい研究室はフェロモン全開で匂いプンプン、女の私でもびびるくらいだったから。萩尾将軍の大奥というほうがふさわしいかもしれないけれど、そこは国文だから、優雅に“萩の局”といったのだろう。でも唯一の男だった先生の肉体は、あのフェロモンの渦のなかでどう反応していたのかしら──?
私は1年前期の『古典文学概論』の講義で先生をはじめてを見て、その瞬間から「どうにかしたい」と思った。学校の先輩やお姉ちゃんから聞いて高校時代から先生のことを知っていて、それで入学してきたおしゃまな子もいたが、いつから先生を“人しれず見そめたか”については、皆も私とあまり変わるところはなかったはずである。在学する女子学生の大半が「チャンスさえあれば……」と虎視眈々と彼を狙っているというのは、思えば異常な状態としかいいようがなかった。
そこにおいては、一般社会の雌雄の関係がまるで逆転していた。萩尾先生は血に飢えた狼の群れに投げ込まれた子羊、いやもっと生々しくいうなら、禁欲を強いられてきた脱獄囚人たちに拉致されたひとりのいたいけない少女そのものであった。他学部や他学科の学生すらあわよくばを願う。まして国文学科の、そして激烈なゼミ選抜を勝ち抜いて先生のゼミに入った私なのだから、なにがなんでも“落とす”と決意するのは当然だった。
女子大学という女の園(いまの私は闘技場だったと思っているが)では、女性は男性化し、数少ない男性は女性化する。——これは正しい言い方ではないだろう。正確には女性が能動的・攻撃的となり、その投影として男性は受動的に情況順応するようになる。ただし女性の攻撃的気分は横溢するが、男性に対しての表現としては(伝承のなかの先生の奥様の戦術のように)隠微な衣をかぶる。だから戦いの勝者となった女性は、ヒロインとしてではなく、ヒーローとなった高揚感に酔うのである。
そのころの私は、“落とす”ことの意味を、ただ先生と寝ればいいのだと考えていた。一夜でもいいから寝て、その物証を手にすれば勝ちなのだ。略奪したいなんて、考えたこともなかった。卒業後でもいい。物証をひそかに友だちに見せて、「私はちゃんとやったんだ」とヒーローの笑みをもらしたかった。この戦いに勝つために生きてきたのだとさえ思ったほどである。