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30歳になったのを機にトルコに一人でやってきた
本場のトルコ風呂いえ、トルコ風SPAを体験したかったから
ここは乾いた風の吹く
広大なアナトリア高原の真ん中

老いた夫はなにも私を妨げない
愛人とはイスタンブールで3日後に落ち合う

うすものの下着だけ
カラメルのような感触の黒石けん
ハマムでは熱いタイルにタオルひいて
水霧の中に千夜一夜の幻を見る

垢すりの男は妖しげな言葉をかけ
火照った身体をマッサージルームに導く

ムスクの香りかそれとも......

少年は17歳にでもなるのか
長い睫毛に奥に翡翠色の瞳を湛え
引き締まった褐色の肌

「マダム、ここに横になって」
ガウンを脱ぎ去って寝台に横たわる

さまざまの男たちの指や唇が這い回った私の躯
いい齢ともなって自信はある。
—— 照明を昏くして頂戴
香りはオリエンタル
灯のオイルか
香が焚かれているのか

マッサージがはじまる
少年ながら掌も力もすでに大人のそれである
きっとあそこも

「マダム、トップレスになって」
振り向くと困惑したような顔
—— あら

乳首にかけられていたタオルもほどなく解ける
淡々と〈仕事〉をこなしている美少年
私は陶酔を欲する

脚の内側をなぞられる
やがて指は鼡径部に
はじめはゆっくり
少しずつ強さを増し
同じところを繰り返しなぞる

—— くぅ
脚がピクンとする
身体が火照ってくる
顔に血が上る
全身があせばむ

彼を見る
満足そうな顔
座って後ろから羽交い絞めされるようにしてのストレッチ
彼の前身が背中に当たる
固く熱くそそり立っているモノを感じる
私も満足する
子宮がキュンと収縮した
心臓がどきどきする

クールダウンはバストのパック
火照りは収まらない
躯が湿る

「オリジナルのマッサージがあるんです」
—— あら、どんなの?
ぎこちなく走り書きされたメモ
ランダムな数字の羅列でしかない

コースを終えてミントティを喫する
奥はそこだけが照明が暗くなって
少年が年の離れた男の膝の上に寝ている
シーシャ(水たばこ)を吸いながら
本当に美しい顔立ち

空は満天の星
風は冷たい
私が何をしようとしているか
夫もだれも知らない

ゆきずりの千夜一夜物語......
なんとする?
だが
想像力が現実より快楽をもたらすこともある
メモを破り棄てた

私はその夜、
繰り返し襲いくる妄想の波の中で、
自分を烈しくおかした

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「五月を待って咲く橘の花の香をかげば、去年の夏の曙のまどろみにくるまったあの人の袖とまさぐった胸からたちのぼった匂いを思い出してしまう。今はどうされていらっしゃるのだろうか、と」

一首の解釈をそう述べて着席すると、先生は「ずいぶん突っこみましたね。そのまさぐった胸はどこにあるんですか、石川さん……?」と厳しい顔で言った。
「ここは安っぽい恋物語を下書きする、シナリオ作家のたむろする楽屋じゃありません。書かれてあること、調べたことの結果のみが表現を許されるのであって、妄想を口にする場ではないでしょう」

「いいえ」、私は敢然と言った。「妄想ではありません。その時代、十二単衣は布団でもあったといわれています。そうした女性は自分の十二単衣の中で、くるりと包まって寝ていたそうです。この歌、読み人知らずですが、作者が誰であれ──男であれ女であれ歌の主体の性別はどちらでもいい──それだけ洗練された歌だということができます。私は女ですから女性が詠んだように解釈したのですが、私の解釈であっても男性が詠んだといって不思議ではないと感じます。夏の初めのころの夜、恋人どうしがくるまって寝る。愛をまさぐるためのかけられた単衣の一番下は、裸のふれあいに違いないのです。また、袖の香は焚きしめられたものだとすると、橘の花ではなく果実の柑橘臭ということになります。花の香をかいだだけの関係ではない、すでに実をもいだ関係の愛人であることを強調するのが香の重ね使用と思います。どちらが強いということもない対等の性の透き通った愛の強さ、それを表現するのに“胸まさぐる”がいけないのなら、替わるべき表現はどうしたらいいのか教えてください」

 先生は苦笑いして、「あなたの思い入れが間違いとまでは言いませんが、それは主観にとどまりますよ。一次解釈は客観性を重視してほしいものです。もし、高校の国語の授業でそんな解釈をされたら、生徒はどうなんでしょうね」と皮肉っぽく言った。

「きっと大喜びしますわ」と私は言った。教室中が「わっ!」と沸いた。「じゃ、古今はこれでいいですね、石川さん」と先生は次に行こうとする。
「先生の解釈をお聞きしていません、教えていただくお約束です」と私は言う。

「和泉式部日記は、式部が亡き恋人の弾正宮為尊親王(だんじょうのみや・ためたかしんのう)を思いつつ、五月の庭を眺めながら体を熱くしているところから始まります。するとそこへ、弾正宮の弟である帥宮敦道親王(そちのみや・あつみちしんのう)の使いの小者がやってきて、花橘の枝を捧げるのです。敦道親王は、新しい恋を誘ってきたのです。式部は──すでに夫のある身で地方赴任を幸いと為尊親王と道ならぬ恋に耽っていたのですが──このときも躊躇せず、すぐに、
かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたる
と返します。あなたは恋しかった人の弟君、きっとお声もあの方に似ていらっしゃるのでしょうね。衣擦れの音とともに囁かれたあの情熱的なお声を、また聞いてみたいものです……ということでしょうか。差し出されてきた手を握り返したのです。そしてふたりの愛が始まります。
桜色にそめし衣をぬぎかへてやま郭公(ヤマホトトギス)けふよりぞ待つ
の歌は、その心境を歌ったものともいわれています。このシーンを思い浮かべてください。兄君が私を染めた色は桜色、いま、花が散って春は去り、初夏がやってきました。私は古い衣を脱いであなたへと衣を更えます。やまほととぎすが鳴けばあなたがいらっしゃる。今日から私はあなただけを待つ身となりました……。風景は新緑の庭、白い橘の花。バックを繰り返し流れる歌は、例の“さつき待つ”です。この BGMを、みなさんはどういうふうに受けとめますか?」と先生は問いかけた。
 
「石川さんはどうでしょう?」
私は黙って頭を下げた。

この日の講義のあと、研究室に顔を出して先生にお茶を入れた。先生はおいしそうに茶を喫して、「あなたの袖の香がしますね」とつぶやいた。横に立っていた私は、「それはどういう意味でしょうか?」と首をかしげた。先生は「あなたの思っているとおりですよ」と答えた。

私はしっとり濡れている手を差し伸べ、彼はその手をぎゅっと握り返した。

心臓がコトンと反応し、背中から体が浮かび上がる想いがした。
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2年生のプレゼミは学生10人ほどで、テーマは自由読書による研究発表であった。どれでも構わないから古典を読んで、それについて調べたことや感想を発表するのである。源氏や伊勢は人気が高く複数の学生がテーマとしたが、私は『とりかえばや物語』にした。ゼミの日は1時間前に研究室に行って、セッティングをした。それに「私、煎茶道をやってるの」と言って、お茶出しを私だけのものとした。

なぜそんな面倒なことを──? いや、これこそ私の秘策だった。給湯室でひとり、お茶の準備をする際、先生の湯呑みの縁を軽く舌で舐めた。口づけだとグロスがついちゃうからNGだし、何より、犬を手なずけるには飼い主の唾液をたらした餌を与えろというでしょう? 家で犬を飼っていたから、これは効くはずだと思ったのだ。最初のとき、私の出したお茶を飲んだ先生は、じっと見つめる私の眼には一瞬いぶかしげな顔をしたようにも見えたが、なにごともなかったように飲み干した。

時々のレポート提出は、ワープロではなく万年筆の手書きとした。このインクの中にも自分の体液を混ぜた。私の体臭を繰り返し刷り込むのだ。とにもかくにも手なずけて、警戒心を解いて、次第に馴らしていくことにした。効果がすぐには発揮されないにしろ、なんにもしなければいつまでたっても“落とす”ことはできないのだから。

『伊勢物語』をテーマとした学生がいて、その日は第60段“花橘の章”についての発表から話がふくらんだ。

『昔、男ありけり。宮仕へ忙しく、心もまめならざりけるほどの家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へ住にけり。この男、宇佐の使にて行きけるに、ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ。」と言ひければ、かはらけとりて出だしたりけるに、さかななりける橘をとりて、
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
と言ひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて山に入りてぞありける。』

この60段は短い章で、現代語訳すればおおよそ、『昔ある男がいた。宮仕えが忙しく、結婚した妻をないがしろにして気持ちも律儀ではなかったので、妻は「あなたに誠意をつくしたい」と言い寄ってきた者とともに都から駆け落ちしてしまった。ある男、宇佐神宮への勅使として遣わされた旅のおり、ある地方で、接待役の妻が逃げた自分の元妻であると知って、「女将どのに一献差し上げたい。そうでなければ私は飲みたくない」と言い募った。女がやむなく盃を持って酒を受けようとしたところ、男は酒の肴であった橘を手にとって、
五月を待って咲く橘の花の香りをかぐと、昔の人の袖の香りが懐かしく思い出される
と歌った。女は「はっ」と思い当たることがあって、その後すぐに尼になって山寺に入ってしまったという。』
といった意味である。

物語の内容についてひとしきりの論議——「この段はなにを言いたかったのだろう?」「男が仕事に忙しいと構ってくれないくらいで駆け落ちするのはけしからんとでもいうの?」「出世して権力を手にしたほうが世の中は勝ちなのかなぁ……」「デキルかもしれないけど不誠実だった夫を見限って、まめな男と手に手をとって都から駆け落ちしてささやかな幸せを手にした女を、権力で女だけではなく相手の男まで突き落とすような男なんて許せない」「なんでもう一度、もっと田舎に逃げなかったのかしら。尼寺に入る必要なんてないのに」「女流文学とか男の通い婚とか、女性の地位はそんなに低くないと思っていたけど、夫を裏切ったら恥じて尼にならなきゃいけないなんて、平安時代もまだまだだったのね」「ともかく、この男の男らしくない卑怯な振る舞いはサイテーよ」とかなんとか——が終わった。私は時々お茶を継ぎ足したりしながら、それをニコニコして黙って聞いていた。

「ところで石川さんの感想はどうなんですか?」と、先生が訊いた。

私は「みなさんと一緒です。ただ、この美しい歌がこんな低俗な男の道具に使われたことが悲しいだけです」と答えた。みなが「おお!」とうなった。
「それから、先生、古今集ですけど、この歌の解釈を講義で教えていただけませんか?」と言うと、先生はかろやかに言った。

「じゃ、次回の新古今特講でやりましょう。石川さん発表してください」