今話を含め、川越市のことを5話に亘って書いてきましたが、川越市は魅力的な街だということは、前話をご覧いただいた人はお気付きだと思います
ただ、この日も気になったのは人気観光地の川越一番街辺りは賑わってたものの、川越城や喜多院辺りはあまり人がいなかったこと・・・
皆さんが川越を訪れることがあったら、是非この辺りまで見て回ってほしいと思ってま~す
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【2022年9月 川越への旅 その5】
時間も15時半を回り、川越散策もいよいよ終盤戦・・・
川越城を出た後テクテク歩くと、喜多院・成田山参道と書かれたゲートを潜ると~
のっけから不動明王(?)を見つけ、テンションを上げつつ~
江戸時代末期の1853年に創建され、明治10年に成田山最初の別院となった成田山 川越別院に到着し、楼門を潜ると~
境内に入り、すぐ見つけたのは~
山門を建立したと言われる南海坊天海で~
南海坊天海も謎に満ちた人物で喜多院HPから丸めて引用すると~
南海坊天海(天海大僧正)は謎多い人で、関ヶ原の戦い後、徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として立ち回り、以後、二代将軍 秀忠公・三代将軍 家光公に仕えました
また、1612年には、天海の進言により家康公は無量寿寺再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定めて天海の在住を招請し、関東の天台宗寺院は全て喜多院・天海のもとに属することとなりました
なお、108歳まで生きた南海坊天海が残した「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」という言葉は養生訓としてつとに有名です
因みに、南海坊天海は謎多き人で、一説によると明智光秀ではないかとも言われています
僕は根っからの歴史オタクなので、明智光秀が生き残り、この地で108歳で亡くなったかもしれないなんて言われたら、テンション上がっちゃったよ~
その後、慈恵堂(本堂)に向かっていき~
『今度こそコロナが収まりますように』
との願いを込め、静かに手を合わせました
因みに、喜多院のことを同院HPから丸めて引用すると~
喜多院とは、平安時代の830年に慈覚大師円仁により創建され、1599年に第27世の法灯を継いだ南海坊天海(天海僧正)は、1611年に徳川家康が川越を訪れた際に親しく接見し、そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、4代将軍徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました
ただ、1638年の川越大火で現存の山門以外は焼失し、3代将軍徳川家光公はすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山の別殿を移築して客殿・書院に当てました
さっきも書いたけど、南海坊天海は徳川家康公の顧問的役割を果たすなど、信頼感が絶大だったので、こんな手厚い対応があったのね~
また、江戸城紅葉山の別殿を移築した客殿では三代将軍徳川家光「誕生の間」、書院では春日局が使用していた「化粧の間」を400年払うと拝観することができ~
写真を撮ることができなかったのは残念だったけど、家光公が生まれた部屋や春日局が化粧していた部屋を観ることができるなんて、感慨もひとしおだったよ~
なんてこと言ったら、怒られそうだよね~
また、ここで目を引くのは多宝塔で~
川越大火の翌年1639年に建立されたものだけど、13mもの高さがあり見事だったよ~
次に見つけたのは鐘楼門で~
建立年代ははっきりしないと言われているけど、ここも趣ある姿が印象的だったよ~
かき氷自身もみるくがたっぷりで~
『最後まで美味しかったよ~』
掛け値なし、これお薦めの逸品だよ~
でも、この日の話はまだまだ続き・・・
次の話もよろしくね~