前回「多胡碑」の記事で「羊太夫」を取り上げました。
多胡碑
羊太夫とは、群馬県吉井町の特別史跡「多胡碑」にまつわる伝説上の人物です。
今回はこの羊大夫の伝説について、もう少し詳しく書いてみたいと思います。(^。^)
(この伝説には、大まかなあらすじは同じで、詳細が若干違ういくつかのバージョンがあるようです)
「羊太夫伝説」
今から千三百年ほどの昔、上野国(かみつけのくに) 多胡郡の八束城(やつかじょう)に、藤原将監勝定という城主がいた。
城主は子どもに恵まれず、不動明王に願掛けしたところ、7日目に夫婦の前に子羊を抱いた白髪の老人が現われ、「これを与えよう」と言った。
その後、羊の年、羊の日、未の刻に男の子が生まれ、「羊太夫(ひつじだゆう)」と名付けられた。(=藤原羊太夫宗勝)
その後、父のあとを継いで城主になった羊大夫に、あるとき、小脛(こはぎ) という男を従者に雇う条件で「権田栗毛(ごんだくりげ)」という馬が長者から献上された。
小脛にこの馬を引かせると、稲妻のように速く走ったため、奈良の都まで1日で往復することができた。(空を飛ぶ天馬という説も)
ある日、都への途中、昼寝をしている小脛の両脇に、トビ色の羽が生えていることに気づいた羊太夫は、それを引き抜いてしまう。(トビの羽とも)
すると馬は早く走れなくなり、奈良の都を日参することが出来なくなった。
そのため朝廷は、羊太夫が謀反を企んでいると疑い、軍勢を送り込んだ。
羊太夫はこれに応戦したが、次第に城を守ることが難しくなり、勝ち目のないことを悟って奥方一行を逃がした。
そして家来たちが戦死したのを見届けると、金色の蝶に化し、さらにトビに変身して飛び去った。
また、同じように小脛もトビとなって飛んで行った。
その後朝廷側は、藪の中に羊太夫と小脛が自害して死んでいるのを見つけ、祠を建ててそれを弔った。
また、逃げた奥方一行の女性7人も自害していたため、遺体は7つの輿に納めて葬られた。
(★現在の「七輿山古墳(ななこしやまこふん)」といわれます)
そしてこの土地の人は、多胡碑を「ひつじさま」と呼び、羊太夫のお墓と信じ、今でも神様としてお祀りしているのです・・

これは「伝説」とされていますが、実際に八束山の山頂には、羊太夫が乗って天から降りてきたという「舟石」や「羊の足跡」と呼ばれる名所があります。
また、馬を調教した場所が、群馬県高崎市吉井町馬庭(まにわ)という地名の由来の一説になっているなど、地元には羊太夫の痕跡が残っています。
船石 羊の足跡
・・この話で気になるのは、やはり従者「小脛(こはぎ)」ですよね! (何者? (・Д・))
「鵄(トビ)」と関係があることからは、日本神話で神武天皇の元に飛んできた金色のトビ=「金鵄(きんし)」を連想します。
「日本書紀」では、東征を進める「神武(じんむ)天皇」が、長髄彦と戦った際、金色の霊鵄が天皇の弓に止まり、その体から発する光が敵兵の目をくらませて、勝利に導いたといわれます。
そしてこのトビは、「古事記」で神武天皇を東征の際に道案内した「八咫烏(やたがらす)」と同一視されてもいます。
「金鵄(きんし)」=「八咫烏(やたがらす)」?
また「トビ」の漢字表記には「鵄」の他に「鳶」もあり、これには「鳶職(とびしょく)」の意味もあります。
「鳶職(とびしょく)」といえば、「大工」を連想します。
大工といえば、「キリスト」や「厩戸皇子(聖徳太子)」が浮かびます。
また、キリストは馬小屋で生まれましたが、同じく馬小屋の前で生まれたのが「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」=「聖徳太子」
その聖徳太子の側近は、秦氏の筆頭・「秦河勝(はたのかわかつ)」
河勝は、実はキリスト教の一派「景教(けいきょう)」の信者ともいわれますが、その景教は「多胡碑」との関連性が指摘されているのです。
秦河勝
そしてキリストは、「羊飼い」です。

「羊太夫」 「多胡碑」 「キリスト教」 「羊飼い」
・・そして「トビ(鵄・鳶)」・・?
これらの関係性が、何かを表しているのでしょうか・・? ( ゚д゚)
・・そんなところを、さらに掘ってみたいと思います。(゚∀゚)

















