感じる毎日を送っていると

世界が

感じることばかりになる。

 

 

 

それは自分の内側に

意識を向けること「だけ」ではなく

 

 

現実社会という名の

 

私たちの「スクリーン」に

 

何が映し出されているかを

 

細部まで見つめてみること。

 

 

 

画面中央の主人公だけではなく

その周りに在るもの

 

 

例えば

カフェのシーンで

丁寧にコーヒーを淹れるマスターの手元や

小さな建具の金具ひとつひとつ。

置かれたチェアの色味や

椅子やテーブルの節々

 

 

ぽってりとしたカップや

舶来のシュガー

シルバーのミルクピッチャー

壁に描かれた文字や絵

 

そこにしん、と置かれているグリーンたち。

 

 

 

「主人公がどうなったか」

だけしか見ていなかったら

気づかない

小さな世界の中に秘められた数々のものたち。

 

 

 

それらは

あなたの意識が

具現化したものだ。

 

 

 

 

そのスクリーンの中に

自分が欲しかったものがない、と嘆くのか

 

映し出された中に散りばめられた

小さな歓びを見つけ、愛でるのか

 

 

選択の自由は

私たちの手に委ねられている。

 

 

いつでも。

 

 

 

 

 

 

-----

 

 

人生で一番深く

自分に潜ってるかも知れません。

 

 

ぷちぷちと弾けるような

歓びの種って

実は日常の中に

たくさん、たくさんあって

 

それに気づける自分になると

どんどんその感覚が

細かくなっていく。

 

 

 

カラーグラデーションのように

繊細な自分の感性が

内側から立ち上ってくる。

 

 

12色しかなかった色鉛筆が

500色まで増えるように

 

ただの赤、として見えていたものが

 

朱色や

茜色や

紅葉色や思色や柘榴色

 

いろんなニュアンスを含んだ「赤」だと

わかるようになる。

 

 

それが

現実が変わらなくても

自分の内側が変わる、ということ。

 

 

画像お借りしています

 

 

その嬉しさや歓びは

格別なもので

 

ただ、歩いているだけで

息吸ってるだけで

幸せを感じられるような

 

 

単純に言うと

ちょっとバカになっちゃった

みたいな感じです(笑)。

 

 

 

 

 

 

外へ外へ外へと

欲しいものを追いかけていく人生も

それはそれで、肉の遊びとしては

最高に楽しかったのですが

 

それは本当に「欲」だけの世界で

 

自我の状態だけで

自分の個体だけを認識して

それだけしか世界がない、と思い込んで

いろいろ獲得し続けることって

 

ある時限界が来ます。

臨界点を迎えるというのが

正しい表現かな。

 

 

 

突然、世界の真ん中に

裸で放り出されるような

そんな感覚を味わうときが必ず来ます。

 

 

“私にはなにもない”

 

 

その「絶望」が来て

どん底に落ちたような感覚を覚えて

初めてそこから

 

 

自分という自我の後ろに

何かあること

何かの気配があることに気づく。

 

 

そこからが本当の意味での

スタートです。

 

 

そう、正しいの。

 

 

「私には何もない」んです。

それが正しいの。

 

私にはなにもないけど

「わたし」には全てがある。

 

 

それが真理であり

究極かつ最大の、真実。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像ネットからお借りしています。

 

先日ようやく「アナログ」観ました。

賛否両論あるみたいだけど

私にとっては素晴らしい映画でした。

 

 

 

 

ずっとノート書いてます。

書くことがありすぎて

ノートタイムがどんどん増える。

それがまた、新たな歓びを呼ぶ。

 

これから私の中から

どんなものが生まれるのか

 

とても楽しみです。

 

 

 

そして昨日これが届きました。

首を長くして待っていた待望のこれf

 

 

 

高橋ナナさん

1000

Questions

About me

自分についての1000の質問

 

 
調子悪くしてブログかけていませんでしたが
わたし、こちらのアンバサダーに就任しております。
 
 

 

こちらについては次のブログに書きます。

 

 

今日も良き日を♫

いつもありがとうございます。