統一教会には、人のいい人が多い。だから、私も現役信徒だったとき、そんな教会の雰囲気に、心が和らいだものであった。
もちろん、そんな教会の“社会”は、綺麗事だけで動くわけはなく、さまざまな矛盾を抱えていた。時にパワハラ、時に騙し、時に心情蹂躙、時に搾取というものが横行していたのである。その矛盾がひどすぎて、今、それが日本社会の問題になっているわけだ。
それでも統一教会の文化は「為に生きる」というものであった。それは神や教会のために生きるというだけでなく、隣人のために生きることも意味していた。そういう愛の文化は、確かに人を惹きつけるものだということは、今でも思う。
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さて、私は棄教により、統一教会の「為に生きる」文化の矛盾を理解し、もうそんな文化はこりごりだと考えた人間である。
その何がいけなかったかと考えると、統一教会では「為に生きる」ことが人生の目的となってしまったことである。だから、棄教後の私は「為に生きる」という生き方を、過剰に否定していたところがある。
しかし、人は「人間」と書くように、人と人の間で生きる社会的生き物である。どのように生きるにせよ、人は「為に生きる」生き方を宿命づけられている。
それでもなお「為に生きる」を否定したければ、無人島や山奥にこもって、孤独に自給自足でやっていくほかはない。
だから、今、改めて「為に生きる」を独断で考えてみたい。
人は、まず自分のために生きるべきだと思う。生きる中で、心に余裕を持ちつつ、そこに「学び」を得るべきだ。そして自分の心に何らかの糧を得て行かなければいけない。そうやって成長していくことで、人は周囲の人のために、社会の人々のために貢献していくことができる。そうやって、結果として「為に生きる」ことになる。
では人は「為に生きる」姿勢を、どのように表現していったらいいのか。それは、人が社会生活を営むための礼儀や規範なのではないかと考えている。それは、人生の基本であり、人生を生きる型や習慣を身に付けるということではないかと思う。
これらは、私の棄教後の”学び”の中で得られた、現段階での結論である。
棄教後の人生。それは『棄教!!劇的ビフォーアフター』。では、ピアノ演奏『匠』を聴きながら、さようなら。
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