『反日種族主義』を読む⑪~シャーマニズムと物質主義〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

書籍『反日種族主義』(2019年、李栄薫[編著])は、韓国の学識者らによって執筆された、のはびこる韓国社会への強烈な学術的批判書であって、その内容は統一教会の組織文化への批判としても有効であるように思われる。

 

そこで、このブログでは『反日種族主義』を読み、印象に残った内容を紹介していきたい。それで韓国社会の実像を知れば、少しは統一教会の実像も理解できる、のかも知れない…。


このシリーズの第11回の記事は、書籍『反日種族主義』より、朝鮮のシャーマニズムと物質主義について紹介する。

 

朝鮮シャーマニズムによる霊魂不滅の死生観は、生きている時の身分に執着し、それは嘘の正当化と物質主義の現実を生み出すという。

 

これによく似た死生観も持つ統一教会も、この例に漏れない。つまり統一教会の現実は、嘘の正当化とともに物質主義がはびこるのである…。

 

 

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さて、前回の第10回記事に引き続いて、今回も朝鮮シャーマニズムについて書いていく。前回がシャーマニズムと身分欲に関する話であるとしたら、今回はシャーマニズムと金銭欲の話になる。

 

前回の記事は、朝鮮シャーマニズムは霊魂不滅の思想により、生きている時の身分に執着するようになるという話であった。生きている時に両班であったものは、死後も永遠に両班なのだから、である。

 

そして筆者である李栄薫氏はさらに言う。そうした朝鮮シャーマニズムの生と死の原理のもとでは、物質主義が発露するのだと。つまり、シャーマニズムの世界では、物質欲、つまり飽くなき金銭欲が発露するという話である。

 

シャーマニズム、物質主義、種族主義は、お互いに深く通じ合っています。シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です。私は朝鮮の奴婢制度を研究する中で、このような生と死の原理に気づくようになりました。

(『反日種族主義』、エピローグ、p.336)

 

 

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ところで、シャーマニズムの死生観により物質主義が発現するという理屈は、なかなか理解しづらいが、それは当然である。なぜなら筆者でさえも、長年の研究の中で気づいたことだからである。

 

筆者の言葉によると、朝鮮シャーマニズムの生と死の連鎖の中では、善と悪の絶対的区別も、死後の審判も成立しないと言う。この言葉、極めて重要に思われる。

 

つまり生きていた時の身分が、そのまま死後も連続的に繋がっていくことで、生きている時の身分に執着することになるという話である。そうした生の身分を手に入れるためには、嘘も不法もみな正当化されるという。その結果、物質主義が成立するというのである。

 

このような生と死の連鎖の中で、善と悪の絶対的区別や死後の審判は成立しません。どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間が永遠の救済に至る道です。それで両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことを不法にお金を儲けることも、みな正当化される物質主義が成立しました。シャーマニズムと物質主義の関連は、このようなものです。

(『反日種族主義』、エピローグ、p.336」)

 

 

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話をまとめたい。

 

朝鮮シャーマニズムが物質主義を発現するように、統一教会も現実として物質主義をちゃんと発現している。さまざまな宗教の中で、ここまで物質主義的な色彩の濃い宗教はないのではないかと思う。金・金・金なのである。

 

これについてシャーマニズムの死生観の観点から説明を試みたい。

 

まず統一教会には、シャーマニズム的な霊魂不在の死生観があるため、生きている時の身分が、死後も半永久的に続く。この生の身分をひたすら追求することを、統一教会では「勝利」と呼んだ。統一教会では、生きているうちに「アベル(信徒)の勝利」を遂げることで、死後における「アベル(信徒)の身分」も確立するのである。

 

そして「アベル(信徒)の勝利」とは、思想の上では「真の愛の勝利」と言われていたが、現実の上では「人と金を集める勝利」であった。アベル(信徒)はカイン(人)を屈服させ、そこから万物であるお金を神の前にお返しするのである。

 

統一教会で真の愛の理想を叫びながらも、実際は神の血統というアベル(信徒)の身分を重要視し、現実として人集め金銭集めに終始した理由はこうしたところにあると思われる。

 

もちろん、統一教会はいろいろと複雑だし、全世界にさまざまな価値観の信徒がいた。さらに集められた金銭は、信徒自身が所有するのではなく、神にお返しするという名目で、その多くが教会に献金されるのも日常であった。


したがって、統一教会はもともとの朝鮮シャーマニズムからはだいぶ変形しているか、それでもなお朝鮮シャーマニズムの死生観と物質主義の伝統を、何らかの形で、確かに受け継いだ宗教だったのでおる。

 

そしてそれが特に韓国の清平におけるシャーマニズム的な霊界解放摂理または先祖解怨摂理に表現されていることは、論を待たないであろう。


つまり、清平摂理とは、悪霊解放というシャーマニズム的な宗教行為によって、信徒はアベルとして勝利を遂げ、霊界での身分を確保しようとした。しかし、統一教会の立場から見れば、その現実は物質主義の発動であって、その結果は清平への人集めと金集めであった。それは結局、信徒個人としては善と悪の絶対的区別が不明瞭な、極めて種族主義的な世界だったのである。

 

つまり筆者の言葉を借りれば、統一教会、シャーマニズム、物質主義、種族主義は、互いに深く、複雑に、通じ合っているのである。

 

 

今回の記事はここまで。次回以降も、もうしばらく、朝鮮のシャーマニズムについて書いていく予定です。お楽しみに!

 

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(2022.7.23 話のまとめで、わかりづらい部分を全体的に修正。)

 

 

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