今の気持ちを綴ったブログVer 2.0 -88ページ目

今の気持ちを綴ったブログVer 2.0

自分の心と向き合って言葉を詩に乗せて紡いでいきます

1996年春
僕は中3になった。
高校受験が差し迫る中、再び始まったイジメと、ショックから立ち直れ無い事とに、僕の中でも非常に辛い時期でもあった。

高校は何が何でも進学したい事、これだけは母も了承してくれたが、私立はどう考えても学費が払える見込みが無いので、公立一本に賭けることが条件だったのでランクを少し落とした。
その理由の一つとして、実は
大学受験の勉強を早く始めたいという理由があって、高校受験で良い結果を出したとしても、大学受験には何の影響も与えない事を聞いていたから、高校はサクッと合格できる所を選んだという方が正しい。

勿論、その辺の話は当時、母にはしなかった。
まだ夢が持てておらず、公民の授業でやった司法の世界に興味を抱きはしたものの、無理があると個人的に思っていて、法学部はあくまで憧れに過ぎなかっただけだった。

とは言っても、学力がすっかり落ちている僕には、高校も簡単に合格できる気は全くせず、中3の間はひたすらに問題に取り組んでいた。
心が不安定な中、勉強の量でそれを補い、何とか成績も少しずつだったが上がってきた。
塾に行く金も無いため、時には教師の家に押しかけて行った事も数回ある。
普段、なかなか喋れない人間になってしまった、この頃ですが自分が必要と思った時には、必要な事は言えるような…、そんな所まではなっていた。

クラスで再び始まったイジメは、完全に相手にしないと決めつけ、とにかく無反応で貫いた。
それが良かったのか、イジメ甲斐が無いと判断されたようで夏休み前には止んでいた。
この時には、感情を表に出さず、心の内だけで迷ったり落ち込んだりする事が出来るようになっていたのだ…。

これから、何年か後、挫折と堕落を経て、うつ病になった時に精神科に行くのだが、その時に
青春時代のストレスと傷が余りに溜まっている
と言われたのが、記憶に根付いています。顔には出さずもはや意識すらしてないけど、此処でも相当精神的に大きな傷を作ったと思います。

そして、二学期からは穏やかでは無いけれど、受験生らしい時間が流れ、並レベルの公立高校へと進学した。

…そう。僕の場合、学力は高校時代に急激に上がったのです。
その背景には、今までの人生で一度だけの出会いがあったのです。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
此処までの話から、僕の最終学歴(東京大学理科一類を家庭の事情で中退)の話をしてもまず信用されませんし、
中学生当時の僕を知る人にも勿論信用されない。
その位、差があります。

たった一人の人との出逢いで人生は大きく変わった訳ですが、
そんな事も起こるから、人生は何が起こるか分からないのだろうな…って思います。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
曾祖母が亡くなって、初めて人の死という物と対面した。
それまでも寂しさはあったものの、この時に一層強い孤独さと虚しさを感じて、
後悔の念が苦しめていく…。

1996年はそんな年明けだった。
これで友人でも居るのなら、もっと気分は楽だっただろうし、精神的に追い詰められても絆で何とかなったかも知れない。

だけど、人が変わって友人を作る事すら不可能になっていた僕には、当然そんな事は無い…。

実は中2の秋に林間学校があって、3泊4日で山での体験をする行事が学校ではあったのだけど、僕はそれにも参加していない。

勉強する為、バイト(新聞配達)が休めないから…
言い訳だと分かっていた。
本当は、クラスの場に溶け込めない僕が居るのは場違いだと、それと無く感じていたからだった…。

中学三年間の間で、唯一イジメが無かったのに、この中2の間は、自分の孤独を感じる心との葛藤が非情なまでに厳しくもあり、キツい…。

曾祖母の死は、僕に暗い影を落とし、二度と救われ無いような、そんな闇へと引き込んでいくかのような錯覚を覚えた。

幾ら割り切ろうとしても、後悔が残る日々。
それは、自分の存在価値の無さを尚更に強調していた。

これから中2の終わりまでに、
飛び降りや、睡眠薬の大量服用など3回自殺未遂をしている。
だけど、あの入院中に感じた死への恐怖、そして実行している途中に母の姿が浮かび、いずれも未遂で終わっている。

そんな、救いようも無い暗闇の中でさ迷う頃、進学問題(特に大学の方)は敢えて考えない事にした。
そして家庭と、陸上部という部活だけは変わらぬ温かさがあった。

この頃になると、一年の時の猛特訓について行けず次々と辞めていき、人数は駅伝に出場出来る程も居なかった。
だから、単純に『走るのが趣味』な奴らの集まりになっていて、相変わらず過酷な練習量だけど、グラウンドを走り回る事や同じ趣味の連中といる、その時間は何にも変えられない時間だった。

部活での仲間や、母の支えを受けながら
僕は少しずつだけど、暗闇の気持ちから脱出して行く事が出来るようになっていった…。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
こうして振り返ると、中学時代は特に孤独との闘いだった気がします。
今も時々孤独感に襲われるのは、きっとこの時の影響が残っているからなのでしょうね。

忘れたくても忘れられないのなら、如何に良い方向に捉えて行くか?

前向きになるのには、そういった事への答えが必要なのかも知れません。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
必ず別れは来る

それは身内であったとしても、容赦なく訪れる

色んな別れ方があるけど

これに勝る悲しい別れは無い

死別という別れ方…

---------------

1995年12月8日。
冷たい風が吹き付ける中、高速バスに乗り僕は西へと向かっていた。

その前日、母と二人して胸騒ぎがして、僕が小学校低学年の頃まで一緒に過ごし、
この段階で福岡の老人ホームに居る、曾祖母の事が急に心配になった為、会いに行く為だ。

母は病気がちだったので無理はさせられず僕一人で、西の大地へと目指し、
あの時、もう二度と渡らないと決めた関門海峡を渡り、九州へ足を踏み入れたのは、その日の夕方だった。

この日は、老人ホームの面会時間も過ぎていた為、旅館に泊まり翌朝一番で向かった。

曾祖母は、インフルエンザに掛かり、合併症を引き起こしていた。
昔から、そんなに丈夫では無かった上に度重なる手術と、高齢(当時87歳)である事とで、心臓が小さくなっていた曾祖母は、何時亡くなってもおかしく無い状況だった。

僕は、それから曾祖母のそばに付いた。
そして治ってくれる事を奇跡を信じた。
曾祖母は、最後に会えたのが僕で良かった…。
そう言ってくれた。時間を見ながら母に電話し、状況を報告する。

だけど…。
そんな事も虚しく1995年12月10日。
僕が来て1日半後に、曾祖母は眠るようにして、亡くなった。

因みに、老人ホームでは、そんな状況であるなら、身元引受人に電話する筈だが
僕の家には電話が掛かって来なかった。
その理由は、身元引受をあの祖母が勝手に書き換えていたからだという…。
その祖母達は来ない。いや、正確に言えば亡くなってから、遺産と遺骨だけ取りに来た。

あの時、嫌な予感が、胸騒ぎがしなければ知らない内に曾祖母は亡くなっていたに違いない…。
そう思うと、やり場の無い気持ちになるけど、それ以上に成り行きとは言え広島の地へ渡り、一緒に生活してあげられ無かった事の方が悔やんでなら無かった。

後で母に聞くと、母も、僕と同じ考えだったようで、何故あの時…。他にもっと良い方法があったんじゃ無いか…?
と後悔の念が残った…。

最期を看取る事が出来たのは、不幸中の幸いだけど…
僕は、ますます影を背負う事になる。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
此処で曾祖母が亡くなり、僕にとって、本当に家族と呼べるのは母のみとなりました。

そして、遺骨なのですが以前Ver2の追記で書いた通り、この後祖母達は先祖の墓に納めておらず、現在も行方が分かりません。
何故、この時無理矢理にでも遺骨を持ち帰らなかったのか…。

それが未だに悔やまれる要因です。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ