それは身内であったとしても、容赦なく訪れる
色んな別れ方があるけど
これに勝る悲しい別れは無い
死別という別れ方…
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1995年12月8日。
冷たい風が吹き付ける中、高速バスに乗り僕は西へと向かっていた。
その前日、母と二人して胸騒ぎがして、僕が小学校低学年の頃まで一緒に過ごし、
この段階で福岡の老人ホームに居る、曾祖母の事が急に心配になった為、会いに行く為だ。
母は病気がちだったので無理はさせられず僕一人で、西の大地へと目指し、
あの時、もう二度と渡らないと決めた関門海峡を渡り、九州へ足を踏み入れたのは、その日の夕方だった。
この日は、老人ホームの面会時間も過ぎていた為、旅館に泊まり翌朝一番で向かった。
曾祖母は、インフルエンザに掛かり、合併症を引き起こしていた。
昔から、そんなに丈夫では無かった上に度重なる手術と、高齢(当時87歳)である事とで、心臓が小さくなっていた曾祖母は、何時亡くなってもおかしく無い状況だった。
僕は、それから曾祖母のそばに付いた。
そして治ってくれる事を奇跡を信じた。
曾祖母は、最後に会えたのが僕で良かった…。
そう言ってくれた。時間を見ながら母に電話し、状況を報告する。
だけど…。
そんな事も虚しく1995年12月10日。
僕が来て1日半後に、曾祖母は眠るようにして、亡くなった。
因みに、老人ホームでは、そんな状況であるなら、身元引受人に電話する筈だが
僕の家には電話が掛かって来なかった。
その理由は、身元引受をあの祖母が勝手に書き換えていたからだという…。
その祖母達は来ない。いや、正確に言えば亡くなってから、遺産と遺骨だけ取りに来た。
あの時、嫌な予感が、胸騒ぎがしなければ知らない内に曾祖母は亡くなっていたに違いない…。
そう思うと、やり場の無い気持ちになるけど、それ以上に成り行きとは言え広島の地へ渡り、一緒に生活してあげられ無かった事の方が悔やんでなら無かった。
後で母に聞くと、母も、僕と同じ考えだったようで、何故あの時…。他にもっと良い方法があったんじゃ無いか…?
と後悔の念が残った…。
最期を看取る事が出来たのは、不幸中の幸いだけど…
僕は、ますます影を背負う事になる。
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(以下、追記です)
此処で曾祖母が亡くなり、僕にとって、本当に家族と呼べるのは母のみとなりました。
そして、遺骨なのですが以前Ver2の追記で書いた通り、この後祖母達は先祖の墓に納めておらず、現在も行方が分かりません。
何故、この時無理矢理にでも遺骨を持ち帰らなかったのか…。
それが未だに悔やまれる要因です。
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