今の気持ちを綴ったブログVer 2.0 -79ページ目

今の気持ちを綴ったブログVer 2.0

自分の心と向き合って言葉を詩に乗せて紡いでいきます

年が明けて2005年になった。
僕はもう23歳。そんなに若くも無い年頃となったけれど、学歴の中で生きて来て、しかも大学中退後、夢も希望も無く、ただ生きる為だけに仕事を探していた。

あの、大学内での競争主義と、そこから二度に渡る堕落した日々とで、すっかり将来に対して夢が持てなくなっていたのだ。

愛知県から京都まで歩いた時の疲れも、向こうで受けた心の傷も癒えて、僕はやはり
生きる為に
仕事を探していた。

そして、そうやって仕事を探すと、辿り着く先は派遣会社となる。
広島県にある大手の自動車の車両組立工場へと行き、そこでの仕事が始まった。

僕に仕事を教えてくれたのは、そこの社員の方で、凄く気さくな方だった。

ある日僕がこのままで良いのか良く解らず、相談をした事がある。

その時、その人は丁寧に頷いて聞いてくれた。そして、

『資格を取った方が良い。今から先、生きていくには経験も必要だと思うけど、何より自分の能力を示す証明が必要になる。
何がやりたいのかを、よく考えてそれに合わせた資格を取っていく。
基本的な学力があるなら、絶対にできる』

と、アドバイスをくれた。
僕は『資格』なんて考えた事も無かった。また、今を生きる事に必死になり過ぎていた僕には、一刻も早く仕事をしなければ、と思うのが先で、全く頭に無かったので、ショックを受けたのを今も忘れられない。

それから、僕は何がしたいのか、そもそも資格を持つとどんな事が出来るのか、
それを調べる所から始めた。

そんなある日、書店で見た、会計学の本に凄く惹かれた。
立ち読みでは飽きたらず、購入して本格的に読みふけって行く内に、僕がやりたいのは監査や会計の分野だという事に気づいた。

しかし、その分野の資格試験は、困難を極めていた。
頂点に立つ、公認会計士は当時まだ僕は一次試験から受ける必要があったし(現在は、学歴条件が無くなっている為、高卒でもいきなり本試験受けられます)、他もかなり難しい…。

だから、時間が掛かる事を承知の上で、まず全ての基本になる簿記から勉強を始めたのだ。

だけど、仕事が忙しい中での勉強は、バランスを取るのが非常に難しいのだった。

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その道は、想像を遥かに超える程、キツい道だった。
高校時代に息抜きで、自転車で山越えした事はあったけれど、徒歩での移動は始めてだった事もあり、途中で見えない目的地を前に何回か挫折しかけていた。

国道1号線を通ると、名古屋市から三重の方を通る。
その時は、10月といえどもあの県境の長い橋からは、暖かい風が吹き付けていて、ここで1度目の夜明けを迎えた。

その後は、次第に山へと向かっていく。
そして終わりなき上り坂へと差し掛かったのは、その日の夜だった。
周りはトラックがやたらと走っていた。
それを横目に見ながら、自分の持ち金で実家まで帰れる京都を目指したのだ。

だけど、あの鈴鹿山脈は七曲がりの道で、幾ら陸上の経験があっても徒歩で越えるのは無謀だと思えた。
この歩き道で思ったのは、それまでの自分の人生だった。

時に歯がゆく思いながら、事の発端となった、自分が大学を退学したあの日からの記憶が、より一層僕を虚しくさせていく。

その内に、この道を自分の人生だと例えるようにしたんだ。
何かを成し遂げるには、こんな道を越えていくような苦労をしなければ、才能にも欠けている僕には生きるすべが無い…。

しかし、また生きていくのが辛いという考えに陥る自分も居た。
動かなくなる体に必死でムチ打ちながら、懸命に歩き続けた。二つの考えを張り巡らして歩いた、この道は良くも悪くも記憶に残る…。

そして、病院を抜け出して4日で、京都駅までたどり着き、切符を買って在来線を乗り継いで広島まで帰り着いた。

母は、僕の姿を見てすぐに何かあった事を察知した。
そして、夜毎に不安になる思い、心の傷を癒やす為に暫くは家に居た。
病院にも勿論通って、薬を処方して貰いながら、心の不安定さを落ち着かせて来たのです。

心の不安定さが落ち着いて
今までで、全てを失いどん底に落ちた僕は、ある意味で開き直りがあった。
飢え死に同然の生活も送ったし、これ以上落ちる事は無い。
その気持ちで、一層前を向く事としたのです。

第3章 END

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第3章の執筆を終えて…
この章は、余りにも辛く表現の仕方が難しいので、全体的に記述が薄くなり、予定より遥かに少ない分量になってしまいました。
後は最終章を残すのみですが、前向きになっていく自分が現在に至るまでを繋いでいくので、ここもそんなに長くはならないかと思います。


(以下、追記です)
これを最初に執筆した2月と現在の間で、ブログの一旦退会や失業と再就職などがあります。
それを『EXTRA』として追加予定ですので、2月執筆時より少し長くなります。


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僕が勤めていた派遣会社では、数ヶ月から1年毎に現場を変えさせる事で、長く勤めさせる方針となっていた。

そして2004年9月。
僕は愛知県にある、自動車部品工事へと行かされる事になった。
この頃になると、母の病気もだいぶ安定してきていたし、1年予定だった為、僕は行く事にしたのだけど…。

その工場で待ち受けていたのは、職場での新人イジメだった。
人が出来無い程の作業を要求し、出来無ければ暴力。休憩を取る暇すら与えず、陰口と暴言づくしの会社だった。

最初は、やはり自分を強く持っていたくて、後ろ向きな事は経験したく無くて、気丈に振る舞っていたのだけど、

日々続く、その暴力的な日々に、自分を追い詰めるようになっていく…。

会社では、昼夜二交代だったけれど、昼勤の夜には、不安と暗さが押し寄せ、
夜勤明けの昼間は、このままどうにもならないような恐怖感に包まれていた。

窓も無いその部屋で、休みの日や勤務から帰った後などは、引きこもるようになっていた。
毎日、ゲームに明け暮れるようになったのです。

眠れなく、無茶な生活を始めた僕は、当然会社でも恰好の的となっていたようで、暴力的な日々は更にエスカレートして行く。

それでますます、現実が嫌になり…
と悪循環していた。

そして、僕は倒れてしまい、病院で入院する事になりました。
入院した時点で、その派遣会社はクビになり、退院した後に行き場が無くなった。

だけど、それでも良いと僕は思えた。
職場の人間は誰一人として来なかった。母に入院した事は内緒にしておきたかったので、実家に連絡を入れて、退院予定日から数日以内に家に帰る事だけを伝えた。

ただの疲労とストレスが溜まった
そう診断されたのだが、夜毎に襲ってくる不安と孤独さは丁度、うつだった頃と似ていた。
早く家に帰って治さなければ、一層酷くなる…。

僕は、退院予定の2日前に病院から抜け出して、夜の闇を歩き始めた。
財布を見ると、名古屋からでは交通費が足りない。京都から乗ってギリギリなのだ。
僕は、愛知県の安城からひたすら国道1号線を歩き始めた…。京都まで約200キロだった。

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此処まで毎回追記を書いていましたが、今日は終盤という事もあって、最初執筆時から敢えて追加するような要素は無いので、追記なしで行きます。

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