今の気持ちを綴ったブログVer 2.0 -78ページ目

今の気持ちを綴ったブログVer 2.0

自分の心と向き合って言葉を詩に乗せて紡いでいきます

2008年9月
派遣先の現場が、急激に経営状況が苦しくなって来た。
それまで派遣としての生き方に何も疑問を抱かなかった、みんなの表情が曇っていくのがハッキリと感じられた。

そして間もなく、派遣切りが始まった。
僕は必死だった。公認会計士の基礎講座がまだ残っている、このタイミングでクビ切られる訳には行かないのだ。

確かに生活そのものは、貧しかったが、失業すると、その僅かな金も入って来なくなるし、またこの頃から派遣としての仕事が殆ど無くなって来ていたので、今失業すると死活問題だったから…。

僕は、人並み以上の作業量と、絶対に欠勤しない事とで、この状況を乗り切ろうとした。

それと同時に公認会計士試験の受験を2009年に定めた。
だから、2009年の3月まで。残りが答練のみになるまでは、失業出来無いのだ。

生産量は落ちていないのに、人は辞めさせられていく…。
そんなだから、残っている僕らは作業量が急激に増え、毎日の残業時間が4時間、時にはそれ以上になる事もあった。

流石に、体の方が疲れて来る…。
勉強が余り進まず、日々不安を抱えながら、それでも仕事と勉強を何とか両立させようと僕は懸命だった。

…こんな時、思い浮かべたのは
4年前に歩いた、鈴鹿山脈のあの山道だった。僕の置かれている立場、僕の前に聳える道は丁度あれと同じだった…。

これ以上落ちる事は無い

その想いだけで僕は生きて来た気がする。

僕は進まないながらも必死でこなしていった。
そして、何とか2009年を失業せずに迎える事が出来た。

2009年になり、更に悪化していく会社の状況。そして、3月いっぱいで派遣は完全に切るという事が決まった…。
何とか、目標としていた2009年3月まで生き残れた形となった。

そして、大分へと帰って来て直ぐにほぼバイトに近い形ではあったものの、仕事にはありつけた。

丁度その頃に携帯電話を購入して(プリペイド以外ではこれが始めて)、ネットの世界を知る事となったのです。

---------------

長きに渡った『過去物語』こと自分史完全版ですが、
昨年5月17日に前のブログを開設する以前の物語は此処までです。
次から最終回。ですが2記事にまたぎます。
ブログ開設後を語ります。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
2006年12月
僕は、新幹線に乗り東京へと行った。
大学を中退してから、恐らく二度と踏み入れる事は無いと決めた、あの街に向かうのは、次の派遣会社の面接が、有楽町で行われた為だ。

東京駅で新幹線を降り、そこから山手線に乗り換える。
東京は日々発展しているだけあり、微妙にあの頃と変わっているけど、迷う事は無かった。

そして、面接をした後、高崎線に乗って、群馬県の現場へと向かう事になったけど、その前にどうしても見ておきたい所があった。

新宿の西側、超高層ビル街である。
大学生の時に夢見たこの地に足を踏み入れ、必ずこの地に来る事を心に刻み込んで、群馬へと向かった。

職場の人間関係は今までに無い程良かった。だけど、寮の家賃が途轍もなく高く、1ヶ月普通に生活するのにもかなり節約する必要があった。
その手取りは5万円未満。
とにかく、頭を振り絞り節約出来る事は全て節約した。

貯金していた金は、将来への投資として公認会計士の予備校で通信講座を受ける為に使って、残りは受験する年の答練(答案練習会という模試形式で行われる講義の事)に注ぎ込むつもりなので、使う訳には行かなかった。

その為、日々の生活は凄く苦しく、土日休みの時は2日で1食とかザラにあった。
それでも倒れなかったのは、飢え死に同然の過去と比べれば、これでもまだ救われていたから…。
心が前向きだったから…。

そこの派遣先は、小さい工場ながらも仕事量が多くあり、忙しさにアタフタしながらも仕事自体は楽しかった。
みんなは、賭け事に金を注ぎ込み、派遣の社会で生きる事に戸惑いも何も持っていない人ばかりだったので、
彼らから見て僕はかなり特殊だった。

金が無いので、2007年は一度も実家に帰れず、その間に母が
『九州で生まれ育ったから、元気な内に戻りたい』
と言い、大分県へと引っ越したのだった。そこが今僕が住んでいる場所となる。

そして、2007年の一年間は、群馬県で手取りが少ない中でも、通信講座で必死に勉強して、公認会計士試験を受験する基礎力を身に付けていったのだ。

2008年になって…。
不況の荒波が、この小さい工場にも押し寄せようとしていた…。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
当時の『手取り5万円未満』は、派遣会社に居て、外の寮に住む方なら経験あるかも知れませんが、普通に生活すると直ぐに無くなる金額です。

此処では、一番負担になりそうな食費を削ったのですが、
そのせいか未だに体重は47キロ、体脂肪率は5%というある意味奇跡な体つきをしています。
しかし、この時は苦しさとひもじさがかなりあったので、これで痩せるなんて事はオススメしません。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
2005年4月
僕は、会計の勉強を始めた。
仕事は毎日2時間の残業、帰ってくればクタクタに疲れ果て、そこから一休みして、簿記の勉強を始める。

全くの独学であったし、ゼロからなので初めは問題集もサッパリ理解出来ず、参考書を見ながら理解していくだけで、1日が過ぎていた。

どうにも効率が上がらず、僕は不安を抱いていた。
資格試験など3級であっても、全く合格出来る気がせず、このままやはり、夢は夢のままで消えてしまうのか…。
等と、不安も抱えていた。

そんなある日、母が予備校に通う事を勧めてくれた。

『お前が本気で、会計の仕事をしたいのなら、とことん勉強するが良い。
予備校は高いけど、お前が貯めた金で行くのなら、何も言わん。』

この言葉は、凄く嬉しかった。
そして、この時に最終目標を公認会計士に置いて、夢が明確に決まったのだ。

最初の2年間は、予備校通いする為に貯金をする

と決めて、この日から人並み以上に残業や早出をして、要らない物を買わず、趣味だった音楽CDはレンタルで聴いて、気に入った物だけを録音する主義にした。

そして、現場は変わる事無く、公認会計士の予備校に通う為のお金が貯まり、そうしながらも簿記の分野だけは勉強を続けていた。

2006年6月
日商簿記検定3級を受験し、合格。
これが、僕にとっての始めての資格だった。
一度地の底まで落ちた僕は、後は這い上がって、空の上に舞うだけ。
その考えで、この後も勉強を続けていく事となる。

そうして、いよいよ本格的に公認会計士を目指す時が来た、その時。
僕が行っていた派遣先で人員削減が行われ、僕はクビ切られてしまう。

諦めて正社員で仕事を探すべきなのか、それともやはり派遣として比較的空く時間を利用して勉強を続けるべきなのか、
暫く迷った。

だけど、始めて夢らしい夢を持てた僕は、自分を止める事は出来ず、派遣で働きながら勉強する道を選んだ。

そして、2006年12月。
僕の職歴としては最後近くになる、派遣会社に入り、群馬県の現場へと旅立ったのです。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
当時の僕は、資格という言葉は勿論、社会人になってからも勉強をするという発想自体が新鮮だった為、久し振りの勉強は随分苦労しました(因みに此処に書いた『日商簿記3級』は少し勉強すれば取れ、速い人は1週間で合格ライン行くと言われてます)。

それが前ブログの初期の頃を知る方はご存知かと思いますが(ってほぼ居ないか…)、公認会計士を狙える位置まで来たのだから、奇跡に近いと言って良いかも知れません。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ