221002  〈わたくし〉の同一性と差異性  イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』 | 思蓮亭雑録

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他者の自我は、わたくしの自我と対自的におなじ権利を主張し、かれの規定にわたくしの規定と同じ価値をあたえるからである。わたくしの〈わたくし〉と他者の〈わたくし〉は、まさしくたがいの観念性のなかに超越されあうことになる。だから、両者は同一性(引力)の関係にあるが、しかし、両者ともたがいにことなるものとして(反撥)、この同一性の関係にあるのである。いまや〈わたくし〉が自分自身をみ、自分を限定するのは、他の〈わたくし〉においてである。〈わたくし〉が他の〈わたくし〉によって自分を限定することは、それ自体本質的な進歩をふくんでいる。ここにあるのは、普遍と個別のダイナミック関係であり、両者のあいだのともかくの生きた媒介である。だから、この媒介は、対象すなわち〈このもの〉における媒介とは別の媒介の秩序の媒介なのである。ということは、存在の独断論的哲学と自我の観念論的哲学とのあいだにはずれがあるということである。このずれがなくなるのは、自我が存在のなかに自分自身をみいだしたとき、意識が自己意識となったときでしかないであろう。 125

👼 対象の〈このもの〉は、どこでもなく、どこでもある〈ココ〉と、いつでもなく、いつでもある〈いま〉とに媒介されることで、まさに〈このもの〉であるかぎりにおいて個別性が否定される。
👹 〈わたくし〉の方はと言えば、他でもないこの〈わたくし〉は、世界を超越し包含する。
👿 ところが、その世界のうちに他の他でもない〈わたくし〉が登場するわけだ。
👼 他でもない〈わたくし〉であるこの私と他でもない〈わたくし〉である他者とが「たがいの観念性のなかに超越されあうことになる」。
👹 このことは矛盾だが、その矛盾は経験するこの私にとっては根本的な挫折の経験と言えるのではないかな。つまり、私にとって他者は私を凌駕して私の権能を否定する地獄だ。
👿 他者は常に私を凌駕するものであって、その意味で私は他者に対して負い目‐罪をもつ。
👼 まさにそれゆえに私は他者に反撥しする。つまり、私は他者において自らを限定することになる。だけど、個の反撥‐差異化‐自己限定が機能するのはそもそもそれが同一性に媒介されているからではないだろか。この同一性は「わたくしがわたくしである」という同一性命題の主語と言えるだろうか、
👹 そうなると。「わたくしはわたくしである」という同一性命題は、差異化の命題ということになろうか。
👿 私が他でもないこの〈わたくし〉であるのは、「他でもない」という差異性においてであるが、この同じことがこの他においても成り立っているし、成り立たないとこの差異性を言うことはできない。では同一性命題の主語である〈わたくし〉とはいったいどのようなステータスなのだろうか。
💩 主語としての〈わたくし〉の発見が近代哲学を画したと言えるかもしれないけれど、この〈わたくし〉の立場は独我論ということではないし、私と他者との矛盾も独我論の矛盾ということではないだろう。それはこの私が〈わたくし〉であり、〈わたくし〉がこの私として存在するという謎でなのであって、むしろ独在論的な問題なのだ。おそらくそれは、世界の媒体自身が世界のうちに現れる、換言すれば分散‐複数化するという媒体性の問題だと言えるだろう。そして媒体として機能するものを精神としての生命と言うことができるとすれば、この問題は生命の弁証法の問題とも言えるだろう。一であり、多(他)であるということが生命の在り方ではないだろうか。

 

An Orthodox choir parade during the celebrations in the eve of the Ethiopian Orthodox holiday of Meskel, in Addis Ababa on September 26, 2022. The Ethiopia Meskel celebration is an annual religious holiday in the Ethiopian Orthodox church. It commemorates the supposed discovery in the fourth century by the Roman Empress Helena of the True Cross upon which Jesus was crucified. (Photo by Amanuel Sileshi/AFP Photo)