歴史的に言えば、ガリレイの発見は,次のことをあからさまに実証してしまったかのようである。つまり、最高度に抑圧的な恐怖と、人間的思弁の最高度に舞い上がった希望とは、言いかえれば、現実を取り次いでくれるはずのわれわれの感覚または感官はじつはわれわれを欺くものなのかもしれないという太古以来の怖れと、地球外の点を見つけてはそれを拠りどころとして世界の蝶番を外してしまおうとするアルキメデスの願いとは、両者が一緒になってはじめて、いわば手に手を携えて、現実味をおびたということ、これである。つまり、世界の蝶番を外してみたいという願望は、根本的な世界喪失と現実喪失を条件としてのみ叶えられたかのようであり、感覚によって欺かれているかもしれないという怖れは、この世を超えた力を現実化することによってのみ確証されたかのようである。(アーレント『活動的生』344)
👼 アーレントが『活動的生』の最終章で近代科学について語っているということ自体が興味深い。しかし、それは頷けることである。なぜなら、近代科学は近代によって始まった世界疎外の極限的な事態だからである。近代科学は世界の外の「アルキメデスの点」に立ったかのようにふるまう。これは政治的には危険なことである。というのは、政治とは世界を維持することであるが、それは内世界的な人間の言論と行為によってなされることだからである。政治においては誰も世界を動かす「アルキメデスの点」に立つことはできないし、また立つべきではない。それは究極的な支配だからである。世界を外部から動かそうとする者は、もはや他者と共に行為する者ではなく、世界を設計し操作する支配者になるからである。したがって政治の条件とは、世界を動かす外部点を持たないことであり、世界の内部において複数の人間が共に存在するという事実そのものにある。
👹 人間を世界に結び付けるものは身体である。神ですら世界に介入するためには受肉しなければならなかった。そこで、われわれを人間の世界の内への現れ、世界への介入を受肉と呼べるかもしれない。この身体は単なる生物学的身体ではなくメルロ=ポンティの云う「肉」である。それは、「私」という主体というか「我々」という複数的な主体と「世界」という客体があらかじめ分かち合っている「共通の地平」、すなわちアーレントが述べている「世界の蝶番」である。すなわち、「世界の蝶番を外す」とは我々の複数的な主体性と世界そのものが二つながらに喪失されることである。もちろん、我々はその身体的な有限性を脱することはできない。にもかかわらず、我々は「世界の蝶番」を外したかのようにふるまうことを知った。いわば、我々の振る舞いの場は仮想現実に移行した。核技術、生命科学、情報技術などの現代科学技術は仮想現実に定位して遂行される。
この現実の仮想現実化という現実が我々に突きつけることは人間の消滅と政治の不可能性という相関する危機である。仮想現実化とは人間と世界という相関的な存在の存在様式の根本的な転換である。世界は人間の間に開かれるものであり、その空間が人間の言論と行為を可能にし、その言論と行為によって世界は維持された。しかし、仮想現実においては人間も世界の単なる操作対象として立てられる。操作対象は行為しない。その振る舞いは単なる反応である。つまり、それは政治を営まない。政治は単なる操作‐支配となる。アルキメデスの点に立つ、正確に言えば、立ったかのように振舞うとは、我々と世界の存在条件である身体を脱したかのように振舞うことであり、そのことによって我々の主体性も世界の世界性‐政治性を根底から無効化する不可逆的な転換を行うことにほかならない。仮想現実化とは、行為を反応へと還元し、人間を主体から対象へと転落させることによって、政治そのものの成立条件を消去する出来事である。
👿 仮想現実化という現代の状況が我々に突きつける具体的な危機は、同型的なものであるが、AIとファシズムであろう。それらが同型的だというのは、それらはともに思考を不要にするからである。AIはすでに最適解を知っている。我々は自ら思考しないでAIに尋ねればよのだあら、これは便利で効率的であるから我々にとって魅力的である。だが、便利で効率的というのは反応の価値であって、思考、さらに言えば人間的生の価値ではない。なぜなら、人間的生は未来に向かうものだからである。未来が未来である所以は、それが常に不確定で裏切り得るものであるということだ。便利で効率的をよしとする発想は、この未来の本来的な揺れを無化する、というか無化されたと思うということであって、すなわちこの揺れに向かう人間的な生を無化するに等しいことなのである。
同様にファシズムも我々に思考させない。古典的なファシズムはそれを暴力、強制、恐怖によってそれを我々に強いた。だが、21世紀に生きる我々にとってはそれは牧歌的だとすら言える。いや、そもそもファシズムの本質はそのような外的な力ではなく、希望なのだ。21世紀の世界的な右傾化から窺えるように、ファシズムは民主主義という未完のプロジェクトに疲れた者たちにとっての希望なのである。民主主義はそれに従っていればよいといった制度ではなく、常に「よりよさ」を地平として改変され続けるプロジェクトであって、未来なのだ。したがって、ファシズムについてもAiと同様なことが言える。つまり、ファシズムは人間から人間的な生を奪うのである。
AIとファシズムが同型であるのはそれらの時間性が同じであるところからくる。それらは共に既在性に定位するのだ。AIの最適解は蓄積されたこれまでのビッグデータから導かれる。ファシズムは在りうべき世界を過去のユートピア、かつてあったと信じたいユートピアに定位する。そこの人間の生の未来性との齟齬がある。人間的な生の現存‐現在は既在性が未来性と出会うこと、つまり既在性が裏切られうる不確実性へと開かれることにおいて成立するが。AIとファシズムの時間性はそれを拒絶して既在性に立てこもるのである。それは人間に生を拒絶するに等しい。ところが、厄介なことは人間自身がそれを望んでいるということである。未来性の裏切られ得るという不確実性は、だからこそ生は自由であり未来は希望であるという人間の偉大さであるが、フロムが指摘するように人間はそこから逃走しようとする。生は人間にとって耐え難い課題なのだ。
💩 我々が直面する危機の本質が思考の不要化であるならば、その危機への対処のポイントは、まさに思考の復権ということになるであろう。では、復権されるべき思考とはどういうものであるのだろうか。AIにしてもファシズムにしても、それらは我々に常に既に最適解を与えそれによってむしろ世界と未来を閉ざす。とすれば、復権されるべき思考とは、開く思考、解放としての思考となるだろう。AIやファシズムが提示する「最適解」は、過去の集積から導き出された予め用意された「もっともらしい未来」に過ぎず、そこには真の意味での「新しさ」が欠如している。そこでは人間は「いいね」をクリックするだけの存在、Yesというだけの存在であるが、その自動化から我々を引き離すのは「なぜ」という疑問である。
疑問には大きな力がある。なるほど、我々は様々な前提の下で存在しており、徒手空拳で世界に向かって思考することはできない。だが、「なぜ」という疑問は我々がその諸前提を括弧に入れることを可能にする。この「なぜ」という現象学的なエポケーは、外部に立つことであるが、近代科学のように「アルキメデスの点」から世界を計算対象とすることとは違い、世界に介入しなおすことである。「なぜ」という問いは、世界との距離化Entfremdungであると同時に脱距離化Ent-fremdungなのである。それは我々を拘束する既在性に対し自由な立場を確保することである。この距離を保ったまま再び関係の中へと入り直す運動こそがアーレントが「赦し」と呼んだことだ。したがって、赦しとは単に過去を消去することではない。それは、既在を保持したまま、それに拘束されない仕方で関係を再開する思考の営みである。
そして、ここにアーレントが「約束」と呼んだ営みが接続する。「赦し」が過去の束縛から我々を解き放つ応答としての距離化=脱距離化であるなら、「約束」は未来の「不確実性」に対する応答としての希望である。もちろん、希望は裏切られうる。だがそれは、人間は世界を支配することはできないが、それでも信頼の島を築き生きてゆくことができるという偉大さである。だが、島を築くには質料が必要である。それが既在性である。つまり、人間は既在を赦すことによって未来へと解放する。そして約束はそれを受け希望として不確実な世界を安定化するのである。この既在性と未来を媒介する現在性の営みが思考である。すなわち、思考とは人間が既在と未来の「蝶番」として世界を世界化すること、言い換えれば時熟させることであり、人間の側から言えば世界の内へ受肉することである。そして、重要なことは、この事態が可能になるのは人間が複数的な存在だからだということである。思考は孤独な営みでも、独善的な営みでもない。赦しも約束も他者が存在するお陰で発動する有限性である。有限であるとは、過去を完全に保持することも、未来を完全に支配することもできないということである。思考とは、有限な存在としての人間が、既在を赦しによって解放し、未来を約束によって責任として引き受け、時間性を媒介することで世界を成立させる現在の運動である。
現在には二つある。一つは過去と未来に挟まれた時間の一項として消えゆく現在であるが、これは何ものも媒介せず、何ものも開かない。というのは、点としての現在は刺激と反応の「今」であり、そこには経験が生じないからである。AIのアルゴリズムや、ファシズムの熱狂が強いるのはこの刺激と反応であり、その時間性は経験なき現在である。もう一つは既在と未来を包み込み、それらを関係として成立させる場としての現在である。既在を包むとは、過去を赦すことでそこから自由になると同時に過去を自由と希望の質料として迎え入れることであり、未来を包むとは、約束することで他者との共同性において未来を自由と希望の形相として獲得することである。そして思考とは、点としての現在場としての現在に参入しようとする試みである。それは複数的な人間の試みである。複数的とは有限ということだ。人間の思考は有限であるからこそ世界を開く。


