思蓮亭雑録

思蓮亭雑録

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歴史的に言えば、ガリレイの発見は,次のことをあからさまに実証してしまったかのようである。つまり、最高度に抑圧的な恐怖と、人間的思弁の最高度に舞い上がった希望とは、言いかえれば、現実を取り次いでくれるはずのわれわれの感覚または感官はじつはわれわれを欺くものなのかもしれないという太古以来の怖れと、地球外の点を見つけてはそれを拠りどころとして世界の蝶番を外してしまおうとするアルキメデスの願いとは、両者が一緒になってはじめて、いわば手に手を携えて、現実味をおびたということ、これである。つまり、世界の蝶番を外してみたいという願望は、根本的な世界喪失と現実喪失を条件としてのみ叶えられたかのようであり、感覚によって欺かれているかもしれないという怖れは、この世を超えた力を現実化することによってのみ確証されたかのようである。(アーレント『活動的生』344)

👼 アーレントが『活動的生』の最終章で近代科学について語っているということ自体が興味深い。しかし、それは頷けることである。なぜなら、近代科学は近代によって始まった世界疎外の極限的な事態だからである。近代科学は世界の外の「アルキメデスの点」に立ったかのようにふるまう。これは政治的には危険なことである。というのは、政治とは世界を維持することであるが、それは内世界的な人間の言論と行為によってなされることだからである。政治においては誰も世界を動かす「アルキメデスの点」に立つことはできないし、また立つべきではない。それは究極的な支配だからである。世界を外部から動かそうとする者は、もはや他者と共に行為する者ではなく、世界を設計し操作する支配者になるからである。したがって政治の条件とは、世界を動かす外部点を持たないことであり、世界の内部において複数の人間が共に存在するという事実そのものにある。

👹 人間を世界に結び付けるものは身体である。神ですら世界に介入するためには受肉しなければならなかった。そこで、われわれを人間の世界の内への現れ、世界への介入を受肉と呼べるかもしれない。この身体は単なる生物学的身体ではなくメルロ=ポンティの云う「肉」である。それは、「私」という主体というか「我々」という複数的な主体と「世界」という客体があらかじめ分かち合っている「共通の地平」、すなわちアーレントが述べている「世界の蝶番」である。すなわち、「世界の蝶番を外す」とは我々の複数的な主体性と世界そのものが二つながらに喪失されることである。もちろん、我々はその身体的な有限性を脱することはできない。にもかかわらず、我々は「世界の蝶番」を外したかのようにふるまうことを知った。いわば、我々の振る舞いの場は仮想現実に移行した。核技術、生命科学、情報技術などの現代科学技術は仮想現実に定位して遂行される。

この現実の仮想現実化という現実が我々に突きつけることは人間の消滅と政治の不可能性という相関する危機である。仮想現実化とは人間と世界という相関的な存在の存在様式の根本的な転換である。世界は人間の間に開かれるものであり、その空間が人間の言論と行為を可能にし、その言論と行為によって世界は維持された。しかし、仮想現実においては人間も世界の単なる操作対象として立てられる。操作対象は行為しない。その振る舞いは単なる反応である。つまり、それは政治を営まない。政治は単なる操作‐支配となる。アルキメデスの点に立つ、正確に言えば、立ったかのように振舞うとは、我々と世界の存在条件である身体を脱したかのように振舞うことであり、そのことによって我々の主体性も世界の世界性‐政治性を根底から無効化する不可逆的な転換を行うことにほかならない。仮想現実化とは、行為を反応へと還元し、人間を主体から対象へと転落させることによって、政治そのものの成立条件を消去する出来事である。

👿 仮想現実化という現代の状況が我々に突きつける具体的な危機は、同型的なものであるが、AIとファシズムであろう。それらが同型的だというのは、それらはともに思考を不要にするからである。AIはすでに最適解を知っている。我々は自ら思考しないでAIに尋ねればよのだあら、これは便利で効率的であるから我々にとって魅力的である。だが、便利で効率的というのは反応の価値であって、思考、さらに言えば人間的生の価値ではない。なぜなら、人間的生は未来に向かうものだからである。未来が未来である所以は、それが常に不確定で裏切り得るものであるということだ。便利で効率的をよしとする発想は、この未来の本来的な揺れを無化する、というか無化されたと思うということであって、すなわちこの揺れに向かう人間的な生を無化するに等しいことなのである。

同様にファシズムも我々に思考させない。古典的なファシズムはそれを暴力、強制、恐怖によってそれを我々に強いた。だが、21世紀に生きる我々にとってはそれは牧歌的だとすら言える。いや、そもそもファシズムの本質はそのような外的な力ではなく、希望なのだ。21世紀の世界的な右傾化から窺えるように、ファシズムは民主主義という未完のプロジェクトに疲れた者たちにとっての希望なのである。民主主義はそれに従っていればよいといった制度ではなく、常に「よりよさ」を地平として改変され続けるプロジェクトであって、未来なのだ。したがって、ファシズムについてもAiと同様なことが言える。つまり、ファシズムは人間から人間的な生を奪うのである。

AIとファシズムが同型であるのはそれらの時間性が同じであるところからくる。それらは共に既在性に定位するのだ。AIの最適解は蓄積されたこれまでのビッグデータから導かれる。ファシズムは在りうべき世界を過去のユートピア、かつてあったと信じたいユートピアに定位する。そこの人間の生の未来性との齟齬がある。人間的な生の現存‐現在は既在性が未来性と出会うこと、つまり既在性が裏切られうる不確実性へと開かれることにおいて成立するが。AIとファシズムの時間性はそれを拒絶して既在性に立てこもるのである。それは人間に生を拒絶するに等しい。ところが、厄介なことは人間自身がそれを望んでいるということである。未来性の裏切られ得るという不確実性は、だからこそ生は自由であり未来は希望であるという人間の偉大さであるが、フロムが指摘するように人間はそこから逃走しようとする。生は人間にとって耐え難い課題なのだ。

💩 我々が直面する危機の本質が思考の不要化であるならば、その危機への対処のポイントは、まさに思考の復権ということになるであろう。では、復権されるべき思考とはどういうものであるのだろうか。AIにしてもファシズムにしても、それらは我々に常に既に最適解を与えそれによってむしろ世界と未来を閉ざす。とすれば、復権されるべき思考とは、開く思考、解放としての思考となるだろう。AIやファシズムが提示する「最適解」は、過去の集積から導き出された予め用意された「もっともらしい未来」に過ぎず、そこには真の意味での「新しさ」が欠如している。そこでは人間は「いいね」をクリックするだけの存在、Yesというだけの存在であるが、その自動化から我々を引き離すのは「なぜ」という疑問である。

疑問には大きな力がある。なるほど、我々は様々な前提の下で存在しており、徒手空拳で世界に向かって思考することはできない。だが、「なぜ」という疑問は我々がその諸前提を括弧に入れることを可能にする。この「なぜ」という現象学的なエポケーは、外部に立つことであるが、近代科学のように「アルキメデスの点」から世界を計算対象とすることとは違い、世界に介入しなおすことである。「なぜ」という問いは、世界との距離化Entfremdungであると同時に脱距離化Ent-fremdungなのである。それは我々を拘束する既在性に対し自由な立場を確保することである。この距離を保ったまま再び関係の中へと入り直す運動こそがアーレントが「赦し」と呼んだことだ。したがって、赦しとは単に過去を消去することではない。それは、既在を保持したまま、それに拘束されない仕方で関係を再開する思考の営みである。

そして、ここにアーレントが「約束」と呼んだ営みが接続する。「赦し」が過去の束縛から我々を解き放つ応答としての距離化=脱距離化であるなら、「約束」は未来の「不確実性」に対する応答としての希望である。もちろん、希望は裏切られうる。だがそれは、人間は世界を支配することはできないが、それでも信頼の島を築き生きてゆくことができるという偉大さである。だが、島を築くには質料が必要である。それが既在性である。つまり、人間は既在を赦すことによって未来へと解放する。そして約束はそれを受け希望として不確実な世界を安定化するのである。この既在性と未来を媒介する現在性の営みが思考である。すなわち、思考とは人間が既在と未来の「蝶番」として世界を世界化すること、言い換えれば時熟させることであり、人間の側から言えば世界の内へ受肉することである。そして、重要なことは、この事態が可能になるのは人間が複数的な存在だからだということである。思考は孤独な営みでも、独善的な営みでもない。赦しも約束も他者が存在するお陰で発動する有限性である。有限であるとは、過去を完全に保持することも、未来を完全に支配することもできないということである。思考とは、有限な存在としての人間が、既在を赦しによって解放し、未来を約束によって責任として引き受け、時間性を媒介することで世界を成立させる現在の運動である。

現在には二つある。一つは過去と未来に挟まれた時間の一項として消えゆく現在であるが、これは何ものも媒介せず、何ものも開かない。というのは、点としての現在は刺激と反応の「今」であり、そこには経験が生じないからである。AIのアルゴリズムや、ファシズムの熱狂が強いるのはこの刺激と反応であり、その時間性は経験なき現在である。もう一つは既在と未来を包み込み、それらを関係として成立させる場としての現在である。既在を包むとは、過去を赦すことでそこから自由になると同時に過去を自由と希望の質料として迎え入れることであり、未来を包むとは、約束することで他者との共同性において未来を自由と希望の形相として獲得することである。そして思考とは、点としての現在場としての現在に参入しようとする試みである。それは複数的な人間の試みである。複数的とは有限ということだ。人間の思考は有限であるからこそ世界を開く。

行為が複数性のうちを動くと言えるのは、何らかの行ないの帰結が、じつのところ、この行ない自身から生ずるのではなく、その行ないが組み込まれる当の関係の網の目から、ないしは、等しい行為能力を持ち合わせている対等な者たちがたまたま一組の共同体を揃ってなすにいたった当のめぐり合わせの布置から、生ずるからである。(アーレント『活動的生』321)

主権といえども、それが単独で主張されるとき—この場合の単独者は、一個人であることもあれば、融合して一個の集合体と化した国民全体であることもある—、つねに偽りとなり、支配欲に帰してしまう。それゆえ、主権ですら、それが実現されうるのは、限界つきの一定の程度までは、相互約束の力により団結し結束している何らかの共同体によってなのである。主権はこの場合、限界つきではあれ、未来の不確実性に左右されない独立性から生じてくる。まだ決着していないものについての知、ないしは、起こることの絶対ありえない一連の成り行きというものがあると信ずる根拠ある信頼、これに対応するのが主権なのである。(アーレント『活動的生』322f.)

👼主権を自由の根源だと考える近代的な思い込みの中に生きている私たちから見ると、主権を支配欲に由来する虚構だとするアーレントの指摘は、いささか特異に映るかもしれない。しかし歴史的に見れば、主権はもともと支配と深く結びついていた概念である。主権の起源は唯一神の絶対的支配の力にあり、それが近代初期には王の統治権として世俗化された。そこでは主権とは、一者による支配を正統化する原理であった。そしてその志向は、啓蒙期において国家主権や国民主権へと転換した後も、基本的には変わることがなかった。

確かに、他者を支配する一者は自由であると言えるかもしれない。しかしアーレントの観点からすれば、他者の存在しない一者が真に自由であるかどうかは疑わしい。人間は他者から「あなたは誰か」と問われ、「私は私だ」と応答する。その相互的な問いと応答の往復のなかで、人間は「私」と「あなた」として公的世界の中に現れる。そこに現れるのは、何ごとかを始めることのできる自由の力能をもった複数的主体である。

これに対して、単独者としての主権者は他者を欠くがゆえに抽象的である。その意味で彼は、抽象的な個別者にすぎず、反応と自動化に支配された動物的生存に近い存在となる。ゆえに主権者の言葉は問いかけや対話ではなく命令となり、その振る舞いもまた、新しい始まりを切り開く行為ではなく、他者の行為に対する指示や反応として現れるのである。

もっとも、実は主権者にはある意味で特権的な他者が存在する。それは例外者である。主権とは例外者を指定する権能である。すなわち、誰を法の外に置くかを決定する力である。ここで主権者は、誰が共同体に属し、誰がその外に置かれるのかを一方的に決定する絶対的な力を持つものである。例外者は排除されるが、まさにそれゆえに、例外者は特権的な存在、ある意味では絶対的な存在である。というのは、例外者が存在するがゆえに、ある者は共同体に属する者となり、主権者は主権者でいられるからである。その点で例外者は排除されることによって主権的秩序に包摂される逆説的(例外的)存在である。この逆説性によって、例外者は主権秩序を作動させるために必要とされる機械仕掛けの神(deus ex machina)である。神と思しき絶対的な権能を持つ主権者はその排除の暴力に寄生することでしか、自らの「主権」を実感できないという決定的な不安を抱えている。この不安のゆえに主権国家はどこまでも残虐になれるのである。

👹 その残虐な主権国家の極北がファシズム国家であり、アーレントは亡命者として、この国家形態の残虐さを歴史の外部からではなく、その只中において経験した思想家であった。犠牲者に加えられた暴力は辛酸を極めるものであったが、問題はその暴力が生み出されるメカニズムである。その暴力は主権によってインサイダーとして聖別された者たちの、アイヒマンに象徴されるような「凡庸な悪」の集合的な自動化的な発動が生み出した。それは「融合して一個の集合体と化した国民」の偽りとなった主権の悲劇であった。そこでは共同体を維持する政治権力は単なる反応の連鎖に堕してしまっている。

「凡庸な悪」の集合的な自動化的な発動は過去の出来事ではない。むしろそれは21世紀を生きる我々の常態である。SNSなどのネット空間とAIは我々の思考を停止させる。アルゴリズムは常に我々に先行し我々の選好を決定する。そこでの我々の活動は思考と判断ではなく、単なる反応である。AIは思考を外部化し、我々はもはや思考を引き受けなず、そこには思考の自由も責任もない。我々は「AIに従ったまでだ」とアイヒマンのように嘯くだろう。そして、資本主義システムは成長という至上命題をサイバーゾンビと化した我々に指令し続ける。このときゾンビは、自ら行為する主体ではなく、巨大なシステムの中で反応を繰り返す存在へと変わっていく。資本主義はゾンビという反応機械を聖別する現代のリバイアサン‐主権なのである。

👿 ここで問題となるのはこの主権の主体である。アルゴリズムが我々の選好までを先行的に決定する資本主義というファシズム化する状況において主権者とは何か。あるは、誰なのか。さらに問えば、誰と問える存在なのか。元々主権は神のものであり。次いで王に属し、やがて国家、国民に移った。アーレントが批判した「一人の支配」や「国民という塊」ですら、まだ主体の意志の影があった。しかし、現代のリバイアサンはネグり、ハートが指摘したような帝国、中心のないシステムとプロセスの自動運動体である。そこに顔の見える主体は存在しない。反応と自動化の無人の支配である。「命令に従ったまでだ」というアイヒマンの発言はそのような主権にとって模範解答であろう。「命令に従う」動物は行為をしない。ユダヤ人のために一人でビザを発給するという行為を行った杉原千畝は外務省を追われるほかはなかった。行為しない者に自由はない。自由は行為において始めることだからである。ところが、現代のリバイアサンは自由の幻想を用意している。アルゴリズムの「あなたのための」というパーソナライズは、我々に「自分が主体である」という錯覚を与える。我々は自分を資本主義という快適な海を自由に泳ぐ主体だと、あるいは下僕から貢物を差し出される王だと錯覚する。しかし、その選好が先行的に決定されている以上、我々はシステムを駆動させるための「認証ボタン」として利用されているに過ぎないのだ。「お客様は神様」どころか、単にデータに過ぎないわけだ。データに主体はない。現代の主権は主体なき属性の束である。ましてや「誰」と問われる存在ではない。

そこで我々はまず問わねばならない。現代という状況において我々は主権を欲するか、必要とするかと。たとえば、アーレントは主権概念に批判的である。それは支配という文脈に置かれた概念であり、我々の共同体を維持する権力を無化する暴力になるからである。主権は長らく政治秩序の基礎と見なされてきた。神の主権、王の主権、そして近代においては国家主権や国民主権がそれに代わった。主権とは究極的には一者の意思が最終決定権を持つ状態を意味した。主権への欲望とは支配への誘惑である。というのは支配する者のみが完全な自由を手にすると思われたからである。だが、一者は自由であろうか。アーレントによれば一者の自由は幻想である。なぜなら、自由とは公共的空間のなかで他者と行為と言論を交えながら新たに始めることだからである。他者がなければ主権者の「私」も抽象的な幻想であろう。だから主権者である神、王、国家、国民も排除するという形ではあれ他者を求めたのである。逆に言えば主権を自由の幻想という牢獄から救うためには「あなた」という具体的な複数的な他者が求められるのである。

だが、主権は救うに値するのか。主権の独立性への志向のゆえに主権は救うに値する。アーレントはその独立性への志向に支配への傾向性を見て批判した。だが、独立性には他の支配とは別に、自律性という意味があるだろう。言い換えれば、自己‐主権にはカント的な啓蒙という意味もある。その文脈では主権は近代の未完のプロジェクトなのである。啓蒙的自立とは自己が自己であることの責任を引き受けることによって主体化するということである。それはサイバーゾンビの身体に再び温かい人間の血を流すということなのだ。つまり、カント的な文脈における主権とは、自らの理性を指針として、システムの「反応の連鎖」を断ち切る能力、我々が動物を脱して人間でありうる能力なのである。この啓蒙的自立性はアーレントの批判する独立性とは異なる意味を持ちうるであろう。というのは、人間が自立的でありうるのは人間が複数的であるからである。人間は「あなた」と呼びかけられることによって世界へと分散した状態から我に還る。つまり人間は複数的であるからこそ自立的でありうるのである。アーレントが「何らかの行ないの帰結が、じつのところ、この行ない自身から生ずるのではなく、その行ないが組み込まれる当の関係の網の目から、ないしは、等しい行為能力を持ち合わせている対等な者たちがたまたま一組の共同体を揃ってなすにいたった当のめぐり合わせの布置から、生ずる」というように自立は人間が複数的あることの僥倖なのである。

💩 確かにアーレントは主権概念に否定的であった。しかし、彼女とともに思考するならば、そこから単純に主権を放棄すべきだという結論が導かれるわけではない。むしろ我々はそこに、人間が複数的であるからこそ自立的でありうるという思想、いわば複数的主権の可能性を読み取ることができるのではないだろうか。

複数的主権とは、一者の意思が支配として行使する力ではない。それは私とあなたが互いに行為し、相互に承認し、そして互いに許し合い、約束を交わす関係のなかで、共同的に生成する力である。それは人々のあいだに生まれる共同体の権力を支え、補完する力である。このような意味において理解される主権は、選別排除し動物化する支配ではなく、未来へ向かって開かれた行為の力として現れる。そしてアーレントは、この未来へ向けて発動される力を、約束という美しい言葉で呼んだのである。

共同体を維持する権力はあまりに脆い。人間は複数的だからである。行為は複数性の網の目に織り込まれているがゆえに予測しがたく、時に行為は行為者を裏切るのである。

だが、救いもまた複数性からやってくる。脆い権力に手を添えるのが複数的主権なのである。その将来性への投企である約束は我々が投げ出されている暗夜において希望の光である。もちろん希望は裏切られうる。だが、ブロッホが云うように希望は裏切られうるからこそ希望なのだ。動物は希望をもたない。そして神も希望をもたないであろう。希望は極めて複数的な人間の出来事なのだ。複数的主権は約束によって希望の火を灯す。

複数的主権は一者の支配力ではない。したがって、それは差異や対立を含む。そしてそれを同一性へと止揚しない。権力とはどこまでも差異に貫かれた力であって、だからこそそれは有限なるものの力として支配力への抵抗となりうるのである。複数的主権は対立の彼方に生成するだろう。約束はそれを希望する。したがって、そこに最終的判断主体はなく、複数的主権は主体なき出来事である。差異と対立は「解決すべき問題」ではなく「維持すべき世界の豊かさ」として捉え直される。そのとき、目の前の「他者」はその背後にあるべき自分を示す導きとなり、「主体なき出来事」としての政治は私と他者の日々の対話の中で「祝福」される。国民主権は人民主権に深められる。

行為によって始められたプロセスの取り返しのつかなさと予測のつかなさに対する救済策は、行為それ自身の可能性から生じる。取り返しのつかなさ—つまり、いったん為されたことは、元通りにすることができず、たとえ、自分が何を為したかを知らず、知るよしもなかったとしても、そうだということ—に対する救済策は、赦すという人間の能力のうちにひそんでいる。(アーレント『活動的生』309f.)

そのようにして、相互に重荷を軽くし解放し合うということをたゆまず続けてはじめて、人間は、自由という持参金をたずさえてこの世にやって来た者として、この世でも自由であり続けることができるのである。また、自分の意向を変え、新しく始めるつもりがあるかぎりにおいてのみ、人間は、自由とか始めるとかいった、かくも途方もない能力、かくも途方もなく危険な能力を、まがりなりにも取り扱うことができるのである。(アーレント『活動的生』315)

許し、ならびに赦しの作用によって樹立される関係は、いつも優れて人格的な種類のものなのである。とはいっても、個人的または私的な性質のものでなければならないというわけではない。決定的に重要なのはむしろ、赦しにおいて‘なるほど、ある負い目が許されはするが、この負い目は赦しの行為の中心には存していない、という点である。中心に存しているのは、負い目ある当人自身であり、その人ゆえに、赦す人はそもそも許すのである。(アーレント『活動的生』317)

尊敬は、アリストテレスの言うphilia politikeつまり市民的友愛のごとく、一種の「ポリス的な友情」であって、近さや内面性を必要としない。それによって表現されるのは、人格に対する尊敬の感情である。しかもこの場合、人格は、世界という空間がわれわれの間に置く距離から注視されている。(アーレント『活動的生』319)

👼 複数性は人間の自由を制限するものではない。それは人間の自由の可能の条件である。というのは人間は他者から赦されることによって自らなした行為の重さ、あるいは行為のプロセスから解放され、ふたたび何ごとかを始めることができるからである。さもなくば、人間は行為のプロセスに絡めとられ動きが取れなくなってしまうだろう。私は公共的世界の内に出現するが、それは自ら出現するのではなく、他者からの呼びかけに応答することによって生じる出来事である。その意味で私の存在は常に遅延であり、負い目である。他者が私の行為において赦すのはこの負い目である。だが、これは免責ではない。むしろ、私は許されることによって行為から距離をとり、責任を引き受けるということが可能となる。

たとえばアーレントは現代においては人間の行為が自然に介入し始めたと指摘している。これは具体的には核技術、生命科学、そして情報技術にあてはまると思われる。行為のプロセス性において、核技術は人間の死滅の可能性を開き、生命科学は人間の概念、生命の概念の根本的な変更の可能性を開く。つまり、それらは文字通りの意味でも概念的な意味でも人間の終焉の可能性を開いた。そして、情報技術は自然という領域、文化という領域とならんで情報という領域を確立した。この情報は人間文化を圧倒し、それを自然的な反応と自動化に追いやっている。このような状況の中で、「我々」人間は守勢に立たされている。我々が「人間であること」を護り抜こうとするのであれば、我々人間は自らの行為のプロセスから解放され、自らが始めてしまった事態の責任を引き受けることができるか自らに、ということはつまりお互いに問わねばならないであろう。つまり、それは、核技術、生命科学、情報技術をプロセス的な行為ではなく、反省的な人間の行為として取り戻すということである。それは人間を断罪することではなく、赦すことから始まる。

👹 許しは忘却ではない。なされた行為の重さは忘れることはできない。にもかかわらず人間は赦しうる。それが人間の偉大さである。というのは、赦しにおいて我々は行為ではなく人間を赦すのであるからである。あるは、我々は赦しにおいて人間を行為から解放するからである。確かに人間は負い目ある存在である。しかし、アーレントが云うように赦しにおいて中心にあるのは負い目ではない。他者は赦しにおいて「私はあなたを赦す」と言う。そのことで赦された負い目ある存在は「あなた」という人格として公共的世界に出現する。言い換えれば、負い目ある存在は自由へと解放される。

したがって、赦しは道徳の事柄ではなく、政治の事柄、政治の可能の制約である。というのは赦しは人間の複数性を現実化するからである。「私はあなたを赦す」と語ることで私とあなたの「間」という公共的空間、政治的空間が開かれる。ここで重要なことは、赦す者は赦される者に対して何らかの優位を持っているわけではないということである。赦される者は赦されることによって公共的空間に出現する。同様に赦す者は赦すことによって公共的空間に出現する。つまり、公共的空間への出現において赦される者は赦す者に負っているが、同様に赦す者は赦される者に負っているのである。この平等性が公共的空間の政治性を保証するのである。

👿 この平等性は赦す者と赦される者、私とあなたが同じということではない。というのは私もあなたも人格であるからだ。人格であるとは別個であるということだ。別個でありながら、赦す者赦される者として互いに存在を負いあっていて平等であるということが人間が複数的であるということなのである。逆に言えば、人間が複数的であるとは人間が人格であるということだ。そして人格であるこそ人間は赦されうる。というのは人間は人格であることによって、単に行為のエージェントであることを脱して行為と分離されるからだ。人間が単なる行為のエージェントであるれが、人間は行為に張り付いたままで決して赦されない。虐殺は決して赦されないし、赦すべきではない。しかし、それでも我々は人間を赦しうるのであり、それが虐殺さえも贖罪する人間の偉大さである。赦しは夜を照らす光となる。

だが、なぜ人間はそれほどまでに人間は人間を赦すことができるのか。それは私とあなたが人間だからである。人間の生は反応と自動化の動物的な生ではない。動物は赦すことができない。というのはその生にあっては行為者は行為と分離されない。というよりも、行為者は行為に溶け込み失われている。人間の生にあっては行為者は行為と分離されて人格として、すなわち異なる者として世界に出現している。この異他性、距離の情態性をアーレントは尊敬と云っている。この距離の情態性が尊敬であって嫌悪ではないのは、人間は世界を維持する存在だからである。世界という開かれは私と他者とが互いに距離を取ることによって維持される。「距離を取る」というのは根源的な距離化であると同時に根源的な接近である。私と他者はどれほど離れようとも呼びかけ応答する者としての関係を失わない。どれほど接近しようと人格であるという異他性を失わない。この距離の両義性を、愛は曖昧にしてしまうのに対して、尊敬は維持するのである。嫌悪の両義性はこの尊敬の両義性とは異なる。嫌悪というのは拒絶という距離の最大化であると同時に距離の無化である。というのは嫌悪は相手を打ち滅ぼそうとするからである。その意味で嫌悪は無世界的である。嫌悪においてあるのはむしろ環世界である。つまり、赦しというのは人間における動物性の克服であり、その意味で人間であることの課題でなのである。

💩 したがって、現代を生きる我々にとって根本的な問いは。「現代人は愛しうるか」ではなく、「現代人は尊敬しうるか、赦しうるか」である。自然に介入する行為のプロセスによって核技術、生命科学、情報技術を産んだ現代人は尊敬しうるか、赦しうるか。それは。我々が公共的世界を開き維持することを意志しうるかということ、つまりは我々が人間であることを引き受けるととを意志しうるかということである。原爆の閃光を目撃したオッペンハイマーは『マハーバーラタ』の一節「我は死なり、世界の破壊者なり」を想起した。核技術は文字通り世界を破壊するが、生命科学は始まりという世界への出現を計画的な制作に変えることによって、情報技術は行為を自動化的反応に変えることによって、世界を破壊する。我々は、自分が何を為したかを知らず、知るよしもないままに、世界の破壊といういったん為されたなら、元通りにすることができない取り返しのつかないことに勤しむことができる。あたかも死に魅せられたように。この事態は怪物が産むのではない「凡庸な悪」の為せる業である。

さて、そのような「凡庸な悪」を為しうる人間を赦しうるか。もちろん、赦しうる。なぜなら、我々はそのように問うことができるからである。問いは思考の端緒であり、自動化の停止、新たな何ごとかの始まり、すなわち世界の閉鎖への抵抗だからである。問いは根本的な自由である。問いうる限り我々は、自由という持参金を使い切ってはいない。問いは解放である。「私」は「あなた」に問いかける。問いかけは応答への期待、尊敬の行為である。問いかけることで私はあなたを公共的世界へと解放する。そしてあなたは応答することで私を公共的世界へと解放するのである。思考は孤独な作業ではなく、公共的な営み、複数的な人間として生きるということなのである。問いかけ、問いかけられ、思考することによって「私」は「この私」であると同時に「我々」でありうる。人格として世界の内に誕生するとはそのような奇跡の受肉である。この奇跡の受肉において私もあなたもすでに赦されている。それは途方もない自由であるが、自由は危険と双子である。人格は行為に解消されないが、どのようなことでも為しうるということであり、赦す者はこの危険な自由に堪えなければならないのである。