#206  絶望について  シムノン『片道切符』 | 思蓮亭雑録

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 ジョルジュ・シムノンといえば、僕たちはまずあのいぶし銀のような渋い佇まいのパリ警視庁司法警察局のメグレ警視を想いだすが、小説製造機械とも言うべき多作家の彼には多くの本格小説があり、この『片道切符』はその代表作のようだ。人間の不条理な生と殺人を描くこの作品はカミュの『異邦人』と比較されることが多いらしいが、アンドレ・ジッドは『片道切符』のほうが『異邦人』よりも芸術性が高いと評価しているという。ジッドは「シムノンは大作家だ。おそらく現代フランス文学で最も偉大な、ほんとうに小説家らしい小説家である」と云い、シムノン研究ノートを作っていたという。他にもシムノンへの賛辞を『片道切符』の解説から拾ってみると、「シムノンが耐えがたいほどみごとに描き出すあの悪夢の底までおりてゆく勇気が、わたしには欠けているような気がする」と書いたのはフランソワ・モーリアックで、「シムノンには、結構な解答と道徳的な主張でふくれあがった実存主義者たちより、何倍も深い絶望がある」というロジェ・ニミエの言葉は非常に重要だと思われる。

 おそらく人間にとって一番の謎は人間自身なのだろう。そしてその謎のうちに一歩一歩踏み入ってゆくと見出されるのはニミエの云う「深い絶望」なのではあるまいか。しかし、絶望とはいってもシムノンは実存主義的な観念を先行させない。実存主義的な観念である限り絶望など結構な「文学」に過ぎず、それが、実存主義が一過性の流行に終わって理由だろう。小説作法において「文学過剰」を避けるというシムノンにとって絶望は殆ど物質的な手触りがある人間の裸形であるように思われる。「文学過剰」を避けるというのは文体の問題でもあって、形容詞、副詞や修飾語句を切り捨ててゆくシムノンの文体は英米系の作家だったらハードボイルドと呼ばれるものとなる。とはいえ、シムノンは以下のような美しい情景を描写する。

「大気は重苦しく、にわかに光線が油で描いたように見える。ついで、地平の四隅に稲妻が裂け、運河の水面にさざ波がたち、マロニエの葉がふるえて、自転車に乗った少女たちのスカートは膨れ、雨滴がいかにも不承不承にぱらぱら落ちてくる。そのあとは、あたりが何時間にもわたって灰色画法のようにかき消され、風が吹きぬけ、霧雨が降ってきた」。

 このようなフランス絵画のような世界を背景にして、他方には「死刑ノ宣告ヲ受ケタ者ノ刑ノ執行ハ、スベテ斬首ニヨル」という刑法の条文がリフレインする主人公ジャンの内的世界がある。女のためになり行きで人を殺したジャンは仮出所し、バスで知り合った中年女タチの下男兼情夫となる。あれこれとジャンに対して命令口調のタチだが、精神的に支配されているのはむしろタチの方だ。ジャンはタチの姪フェリシーとも関係するが、それをおそれるタチは監視を強める。そして、ジャンがフェリシーとの関係を認めた時に破局が訪れる。ジャンがそれを認めたのは「これ以上自分には、否認し、茶番を演じ、寝に行き、毎晩毎晩、起こらずにいるはずのない事件を待ち受けながら、ベッドの中で一人冷汗をかくことに耐えられない、と思われたからだ」。狂乱するタチに金槌を振り上げてジャンは叫ぶ、「もうたくさんだ!」 結局のところ「いつまで経ってもやりなおし」なのだ。

 常にやりなおしで、常に同じことの繰り返し。出口はない。そのような人間存在の情態性は疲労である。殺人の後、酒を呑んで眠ってしまったジャンは憲兵に蹴られて目を覚まし言う、「疲れた…、すっかり疲れてしまった…」。絶望に疲れてしまったジャンと比べると、死刑に際して罵声を浴びせられることを望むムルソーはむしろ希望に満ちており、それゆえ観念的だと言えるのではないか。