200213  国家状態、隷属状態、例外状態  ロック『統治二論』 | 思蓮亭雑録

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人間の生来的な自由とは、地上におけるいかなる上位権力からも解放され、人間の意志または立法権の下に立つことなく、ただ自然法だけを自らの規則とすることに他ならない。社会における人間の自由とは、同意によって政治的共同体のなかに樹立された立法権力以外のいかなる立法権力の下にも立たないことであり、また、立法部が自らに与えられた信託に従って制定するもの以外のいかなる意志の支配、いかなる法の拘束にも服さないことである。それゆえ、自由とは、サー・ロバート・フィルマーがその『統治の諸形態に関するアリストテレスの政治学についての考察』の五五頁で述べているような「各人が、望むことをし、好むままに生き、いかなる法によっても拘束されない自由」などというものではない。統治の下における人間の自由とは、その社会におけるすべての人間に共通で、そこにおいて樹立された立法権力が制定した恒常的な規則に従って生きることであり、その規則が何も定めていない場合には、あらゆることがらにおいて自分の意志に従い、恒常性を欠き、不確かで、測り難い他人の恣意的な意志には従属しない自由のことである。それは、生来的な自由が、自然法以外のいかなる拘束の下にも立たないのと同じである。321f

THE natural liberty of man is to be free from any superior power on earth, and not to be under the will or legislative authority of man, but to have only the law of nature for his rule. The liberty of man, in society, is to be under no other legislative power, but that established, by consent, in the common-wealth; nor under the dominion of any will, or restraint of any law, but what that legislative shall enact, according to the trust put in it. Freedom then is not what Sir Robert Filmer tells us, Observations, A. 55. a liberty for every one to do what he lists, to live as he pleases, and not to be tied by any laws: but freedom of men under government is, to have a standing rule to live by, common to every one of that society, and made by the legislative power erected in it; a liberty to follow my own will in all things, where the rule prescribes not; and not to be subject to the inconstant, uncertain, unknown, arbitrary will of another man: as freedom of nature is, to be under no other restraint but the law of nature.  Ⅱ§. 22.

 人間の自己保存の欲求は神によって植えつけられたものであるから、ロックにおいては人間は自らの意志で(神の意に適う高貴な目的に従う以外に)自らの生存を破壊する自由はない。だが、これは神学的なパラダイムによれば人間の自由の単に外的な制限ということにはならないだろう。それはキリスト者としての良心に従うならば必然的に出てくる結論であり、神の下に立つ人間性の完成という意味で生存の意図的な破壊の制限は寧ろ人間的自由の本質をなしているということになるだろう。また、一般に生存の破壊が許されないものであるならば、人間は自己の生存ばかりではなく他者の生存を破壊する自由ももたないだろう。しかし、私の生存を破壊しようと意図する他者に対して場合によってはその生存を破壊する権利を私は有するとされる。何故だろうか。人間はその自己保存のために他の被造物の生存を破壊する権利をもつとされる。人間の生存に照らすと他の個々の被造物の生存は必ずしも尊重されない。ということは、その生存が必ずしも尊重されない攻撃者は他の被造物同様の位置づけになる。しかし、たとえ他の人間の生存を破壊を意図しようとその者が人間である以上、その生存は尊重されねばならないのではないだろうか。確かに他者の生存の破壊を意図する者は人間の名に値しないということが言えるかもしれない。しかし、人間はその自己保存の欲求故に他者の生存の破壊を意図することが、言い換えれば本来人間として許されいない自由を行使することが、つまり悪を行うということが、可能性として人間的自由の本質に含まれているとすれば、他者の生存の破壊を意図する者もやはり人間であり、それ故その生存は尊重されねばならないということになるだろう。とすれば戦争状態というのは、人間が人間として扱わない、また少なくともその報復、防御としては人間を人間として扱わないことが許される例外状態ということになるだろう。自然状態においてはただ自然法のみに従えばよい自由を有しているが、逆に言えば人間の行為を規制するのは自然法のみであって、自然状態は戦争状態に落ち込む危険を常に有している。合意に基づく統治が行われる国家状態においてはその立法によって戦争状態が予防されるが故に、その立法に従って生きることが人間の自由ということになる。しかし、社会状態が戦争状態に落ち込む可能性は事実として常にあり、合意に基づく立法はそのその戦争状態即ち例外状態そのものを法的に規定する。即ち、社会状態、国家状態に於いては例外状態は法的に規定保証される。とすれば、生存の破壊が自然法の侵犯であるとするならば、国家状態においては自然法の侵犯が法的に保証されるということになるのではないだろうか。生存が破壊されること或いは脅かされるということが隷属状態であるとすれば、人間の自由を保障する国家状態は同時にその隷属状態をも保証している。つまり政治とは生殺与奪にかかわる生‐政治である。

 

A protester shouts slogans in front of army soldiers during a protest against a parliament session vote of confidence for the new government in downtown Beirut, Lebanon, Tuesday, February 11, 2020. Clashes broke out Tuesday between Lebanese protesters and security forces near the parliament building in central Beirut, where the new Cabinet is scheduled to submit its policy statement ahead of a vote of confidence. (Photo by Hussein Malla/AP Photo)