200216  私有権の起源  ロック『統治二論』 | 思蓮亭雑録

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以上のすべてのことから、次のことがあきらかであろう。すなわち、自然の諸物は共有物として与えられているが、人間は(彼自身の主であり、また、自分の身体およびその活動や労働の所有者であることによって)自らのうちに所有権の偉大な基礎をもっていたこと、そして、発明や技術が生活の便宜に改良を加えたときには、彼の存在を支え、快適にするために彼が用いたものの大部分は彼自身のものであり、他人との共有物に属するものではなかったことに他ならない。345

 From all which it is evident, that though the things of nature are given in common, yet man, by being master of himself, and proprietor of his own person, and the actions or labour of it, had still in himself the great foundation of property; and that, which made up the great part of what he applied to the support or comfort of his being, when invention and arts had improved the conveniencies of life, was perfectly his own, and did not belong in common to others. Ⅱ§. 44.

 

しかし、後になると、(人口や家畜の増加が貨幣の使用と相俟って)土地を不足させ、土地に何がしかの価値をもたらすことになった世界のある部分においては、いくつかの共同体がそれぞれの領土の境界を定め、また共同体の内部でも、法によってその社会の私的な個人の所有権を規制するようになり、その結果、労働と勤労とによって始まった所有権が、契約と同意とによって確定されることになったのである。更に、いくつかの国家や国王の間で、他国が所有する土地への要求や権利を明白に、あるいは黙示的に否認する同盟が結ばれ、各国は、共通の同意によって他国に対して本来的にもっていた自然への共有権の主張を放棄し、明示的な合意によって、地球のそれぞれの部分と区画とに対する所有権を確定することになった。346

and though afterwards, in some parts of the world, (where the increase of people and stock, with the use of money, had made land scarce, and so of some value) the several communities settled the bounds of their distinct territories, and by laws within themselves regulated the properties of the private men of their society, and so, by compact and agreement, settled the property which labour and industry began; and the leagues that have been made between several states and kingdoms, either expresly or tacitly disowning all claim and right to the land in the others possession, have, by common consent, given up their pretences to their natural common right, which originally they had to those countries, and so have, by positive agreement, settled a property amongst themselves, in distinct parts and parcels of the earth; Ⅱ§. 45.

 本来共有であった自然物に私は私の身体による労働を投下することで価値を付与することによってその所有権を獲得する。労働による価値の付与が所有権の起源である。重要な点が二つあるように思われる。第一に私が所有権を獲得するための労働は私の身体によってなされる。従って、他者がその身体を通して所有権を獲得した物を私が所有するためには他者の同意を要する。第二に私が私の身体によって価値を付与したものが私の所有に帰するのは私が私の身体の所有者であるということによる。つまり、私の私の身体の所有権は、私が労働によって獲得した自然物の所有権とは異なった際立ったあり方をしているということである。それは自然物の所有が私の身体を通した労働を要するのに対して、その前提として私の身体は私に神によって与えられているということではないだろうか。だが、私は労働によって獲得した所有物を(私の生存のために)破壊する権利を有しているだろうが、私は私が所有する私の身体を破壊することは許されないろう。それは私の生存の破壊であるから。私は私の身体に対する所有権を制限された仕方でのみ有しているということになるだろう。他の自然物の所有権の起源となる私の私の身体に対する所有権は制限されている。しかし、それ故にこそ私の私の身体の所有権は他の自然物の所有権の起源となるのではないだろうか。私は私の生存を維持しなければならず、またそれは神意に適うことであるから、私はそのために必要な自然物をその身体の労働を通して所有する権利を有する。

 ところで、私の労働の投下以前に自然物は共有(given in common)であったが、共有であるということはどういうことだろうか。例えば私が自然の果実を摘んだ場合、その行為は労働だからその時点でその果実は私の所有物即ち私が専有する物となる。逆に言えば摘むことをせずに私はその果実に対する所有権を主張することはできない。このことはすべての人に当てはまる。つまり、共有であるとは誰もその所有権を主張できないが、誰もがその労働を通じて所有権を主張し得る状態ということになるのではないだろうか。従って、共有物は常に過剰でなければならない。それが不足したり、不足の可能性が出てきたりした場合にすべての人が自身の労働によって所有権を主張し得るという共有物の性格が同意によって制限される。制限するとうことは権力を及ぼすということであるから、制限するのは同意に基づく統治権力だろう。すなわち、共有物の不足の可能性によって、統治権力の私的所有に対する介入が始まる。このことは別の観方をすれば、統治するということは少所有するということとは別のことだということである。果実を摘んでも所有権が生じるのであれば、自然状態でも所有権はあるだろう。また、身体はその身体の所有者にも不可侵なものであるから、他者の所有に帰することのないものであるが、統治と所有が同じであれば統治権力はそのことによって非統治者の身体を所有することになってしまい、それは神意に適わないことだろう。それ故、同意によって所有権が制限されても、所有権と統治権力の葛藤の可能性は常に存する。

 

Brick kilns in the Kathmandu Valley pollute the environment, exploit the young children and generally operate away from the public eye. No labour inspector ever visits the kilns to monitor the thousands of migrant labourers. (Photo by Narendra Shrestha/EPA)

児童労働に典型的に表れているように労働は所有権の起源どころか、搾取の同義語になっている。