何となく、最近”清水由貴子”さんのことをよく思い出すので…49歳で親の介護を苦にお墓の前で自殺! | angel_green888☆blog

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何となく、最近”清水由貴子”さんのことをよく思い出すので…ネット記事を見かけたので書き留めておきます。

親しみやすい感じのアイドル歌手だったのに…49歳で親の介護を苦に、母親を車椅子に残し、父親のお墓の前で自殺!

引退していたとは言え、地元ではラジオ放送の番組はやっていたと記憶しています。

 

 

 

 

 

母親の介護で芸能界を引退、父親の墓前で自らの命を…清水由貴子さんの人生は苦難の連続だった


                    2024年5月18日

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0938f66d250c8980aa252655738d0512bf7c348

 

 まさに衝撃的なニュースでした。母親の介護に専念するため芸能界を引退していた清水由貴子さん(1959~2009)の突然の訃報……。

歌手としてデビューし、俳優やレポーターなどで明るく振る舞っていた彼女に、一体、何があったのか。

 清水さんの死を改めて見直すと、彼女が抱えていた悩みは、決して他人事ではないことを教えてくれます。

「母ちゃんを連れて行く事許してください」

 「介護のつらさは経験した者でないと分からない」そんな声をよく耳にする。しかも、責任感が強く真面目な人ほど「助けてほしい」となかなかSOSを発することができないのが現実だ。介護・看病疲れで自ら命を絶った人のニュースが日々報じられているが、この人もまた献身的に母親の介護をしていた末、死を選んだ。

 2009年4月21日午後、静岡県小山町の霊園にある父親の墓前で命を絶っているのが見つかったタレントの清水由貴子さん(享年49)である。その傍らには、母親が意識不明の状態で車椅子に乗っていたが、命に別条はなく、警察に保護された。

 富士山を望む自然豊かな霊園。現場近くには「消防に通報してください。ご迷惑をおかけします」などとA4判用紙2枚に書かれたメモがあった。携帯電話には「母ちゃんを連れていく事許してください。天国で幸せ見守っています」と妹に向けた未送信のメールが残っていた。

 この日の午後、清水さんの家族から「20日に墓参りに行ったまま連絡がとれない」という電話が霊園にあったため、職員が捜していた。

 母親は認知症で、糖尿病による合併症で視力が低下。転倒して肋骨も折り、要介護度は下から2番目の「要支援2」から最も重い「要介護5」になっていた。清水さんを知る介護関係者は「自分ひとりですべてを背負ってしまい、自分を追い込んでしまったのではないか」と話していた。

 

 1977年に「お元気ですか」で歌手デビューした清水さん。テレビドラマに俳優として出演したほか、萩本欽一さん(82)のバラエティー番組などで欽ちゃんファミリーのメンバーとしても人気を集めた。2003年にはNHK朝の連続テレビ小説「こころ」にも出演。しかし、その3年後に所属事務所を辞める。母親の介護に専念するためだった。そのころ清水さん自身も、うつ状態だったという。「(母親が)食事をおいしく食べてくれない。おいしくないのかも」「おむつを何種類も試してみたのに……」などと悩みを訴えていたらしい。

 

苦難の連続だった人生

 振り返ると、清水さんの人生は、芸能界にデビューする前から苦難の連続だった。 

 彼女が9歳のとき父親が心臓の病気で他界。まだ39歳だった。彼女のほかに1歳の妹がおり、家族は東京・浅草の親類宅で生活保護を受けつつ生活した。どん底の貧乏生活である。高校も奨学金をもらって卒業した。

 「ずっとお金に縁がなかったせいか、芸能界に入ってからも高級なものはなかなか買う気が起きなかった」(朝日新聞:91年9月28日夕刊) 「家族を喜ばせたい」と都内に一戸建てを購入し、母と妹と暮らした。要介護認定のために訪れた調査員に「何とかやっています」と明るい表情で語っていたそうだ。

 たしかに健康的な明るさが清水さんの魅力だったが、真面目な人だっただけにつらさを表に出すことはできなかったに違いない。やり場のない無念を感じてしまう。 

 清水さんの悲報を受けて、世間はどんなことを思ったのだろう。当時の新聞記事をもう一度読むと、「ひとりの芸能人の死」というより我が身に寄せて、自分自身の問題として受け止めていたことが分かる。…

 たしかに、清水さんと同じように、介護者が介護疲れで悩むケースは多い。仕事を辞めて将来に不安を抱いたり、自分が体を壊してしまったり。介護に専念しようと決意したが思うようにできず、自己嫌悪に陥るケースも多いようだ。  私の知人も、同居母親が認知症になって暴言暴力がひどくなり、グループホームに入れたという。「家が好きだった母を、私が駄目なばかりに施設に入れてしまった」と悔やんでいたが、介護をしながら自らが病気になってしまう人はとても多い。しかも、超高齢化社会。介護者にはゴールが見えない不安も付きまとう。

「何か強く惹かれるものが」

 ところで、清水さんの芸能界への出発点となったオーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)の決勝大会を振り返ってみよう。 1976年2月18日のあのとき、イルカの「なごり雪」を歌って、見事、16代目チャンピオンに輝いた清水さん。14社からスカウトのプラカードが上がった。同じ大会に出ていた静岡出身の根本美鶴代さん(66)と増田恵子さん(66)の2人組(のちのピンク・レディー。このときスカウトの意思を示したのはわずか1社)に大差をつけての栄冠だった。のちのちのことを考えると、あのピンク・レディーに勝つとは、まさに衝撃的な出来事だった。 

 素朴で親しみやすい笑顔。庶民的なキャラクター。しかも、明るく振る舞えば振る舞うほどいじらしさや健気さが感じられる少女が清水さんだった。ジーパンをはき、背中を丸めながらギターをつま弾く姿は、哀愁さえ漂わせていた。 

 審査員のひとり、作詞家・阿久悠さん(1937~2007)は、今までのアイドルにはない限りない可能性を見出していたに違いない。清水さんの第一印象を阿久さんは「美少女という印象でもないし、スターの卵というしたたかな雰囲気でもないのだが、何か強く惹かれるものがあった」と著書「夢を食った男たち」(毎日新聞社)に書いている。 ちなみに、デビュー曲「お元気ですか」の作詞を手がけたのは阿久さんである。 その「スター誕生!」での出来事を清水さんは「徹子の部屋」で振り返り、ピンク・レディーのことを「ピンク・レディーちゃん」と表していた。清水さんなりの思いやりのある愛情表現だったのだろう。そんなところにも誠実で真面目な清水さんの人柄がうかがえる。だが、華々しく芸能界入りしたものの、「お元気ですか」のあとヒット曲には恵まれなかった。 

 「このまま駄目になってしまうのだろうか」と深刻に悩んでいたとき、占い師の「新宿の母」に占ってもらったそうである。1980年、年の瀬の12月27日。一般人と同じく1時間並んでみてもらったところ、「来年から仕事運が向いてくる」と言われた。たしかに、翌81年、テレビの時代劇に初出演し、役者として新しい境地を開く。主演の杉良太郎さん(79)から役者としての心構えや芝居のイロハを厳しく指導されたというのである。 

 82年にはバラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBS)のレギュラーに抜擢。「欽ちゃんバンド」のコーナーではエレクトリックピアノを担当し、多彩な才能を見せた。 

 萩本さんは朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系)で、清水さんが亡くなる前年の08年10月ごろに手紙が届いたことを明かしたうえで、 「手紙の最後に『これからも頑張るからね』と明るいことが書いてあったのに残念。おそらくいい子(でいるの)にくたびれた、そんな気がするね。最後はちょっと悪い子だったな」 と悲痛な表情で語っていた。 

 たしかに、いくら有名人であっても、最後は引退した一般人の身。一度折れた心は、やはり元に戻らないのだろうか。しかも清水さんは、父の墓と車椅子の母という「両親」の前で死を選んでしまった。「お元気ですか、幸せですか……」。デビュー曲の歌詞を澄んだ声があまりにも切なく、悲しい。