この本を読んで、霧が晴れました。
小説のような文章に惹かれながらもわからなかった、
彼女のエッセイの魅力の正体も見えてきました。
デビュー作『ミラノ 霧の風景』は1990年、61歳の時。
亡くなったのが1998年。その間10年足らず。
須賀敦子が生前に刊行したのは5冊です。
彼女がイタリアの暮らしをたたんで帰国したのは1971年です。
なぜイタリアでの生活を綴ったエッセイでデビューするまで、
帰国から20年間も間が空いたのでしょう?
彼女のエッセイの舞台は主にイタリア。
それらを読んでも、帰国後の20年間のほとんどは空白です。
それがこの文庫化によって、
ミラノ・ヴェネツィア・ローマの足跡をたどる既刊3冊に加え、
東京での足取りを探る一篇も一緒に文庫本1冊にまとめられ、
東京での様子も知ることができました。
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須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京 / 大竹昭子 (文春文庫)
2018年文庫化(『須賀敦子のミラノ』2001年刊、『須賀敦子のヴェネツィア』2001年刊、『須賀敦子のローマ』2002年、「東京」を書下ろし、「ことばを探す旅 ロングインタビュー」を加えて統合)
お気にいりレベル★★★★★
執筆者として歩む著者は、須賀敦子の文章に初めて触れて以来、
須賀を敬愛し、インタビューを契機に親交を深めました。
須賀の没後10年ちかく経って、その足取りをたどり、
作品の背景を追い、最終的に評伝として一冊にまとまりました。
著者大竹昭子は、須賀のエッセイ・日記・書簡を精読して
作品に登場する場所、たとえば、
新婚生活を送ったムジェッロ街6番地のアパート、
傘をもって夫を迎えにいったバス停、
夫を亡くした直後一時身をよせたパッショーネ街3番地の支援者宅 etc.を訪れ、
須賀と
作品には直接表れていない須賀の一面をあぶりだします。
この本で著者は須賀をカッコつきで「私」と呼ぶことからもわかるように
その一体化はを具体的な想像生み、あたかも自身の体験のように回想します。
その上で、異邦人の「私」の置かれた状況を分析し、心理を読み解きます。
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須賀の略歴を紹介すると、
国内での文学研究に違和感を覚え、20代でフランスへ留学。
そこでも研究を中断。帰国して、再びローマへ留学。
そこでミラノのコルシア書店の存在というか、活動というか、その根底の考えを知り、留学途中ながら書店で働く決意をします。
その書店のキーパーソンと結婚し、日本文学を翻訳してイタリアに紹介し始めます。
ところが、結婚後6年ほどで夫が急逝。
その後4年イタリアにとどまったものの、
42歳の時に日本に帰国。イタリアでの暮らしは13年間でした。
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その後、デビューまでなぜ20年間もあったのか、
その意外な事情を本人がインタビューで語っています。(『空白の二十年』)
この本を読んで、
彼女の書くエッセイから私が想像していた須賀敦子と、
本書にあるエピソードから受ける須賀敦子の印象とのあいだに、
静と動、理性派と感情派ほどの隔たりがあります。
別にエッセイにおける自分を須賀敦子が偽ったわけではないでしょう。
おそらく、エッセイの視線が、自分=須賀とはまたべつに、俯瞰する点にもあるためです。
この特徴が、エッセイなのに小説のような文章を生んでいます。
そしてこの二面性を生む源が、書くまでの20年を要した理由とつながっている気がします。
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夫ペッピーノの急逝、
夫の実家の鉄道員住宅の暮らし、
ヴェネツィアで訪れるゲットー(ユダヤ人居留地)、
コルシア書店にまつわる宗教上の軋轢、
登場人物の階級格差 etc.
こうしたエピソードが暗い印象をあたえる一方で、
登場人物の一部がときおりみせる、少し影を背負った明るさが、
異邦人須賀敦子をカンフル剤的に支えたのでしょう。
でも、最後の10年間に執筆に文込めたのは、学生時代から不完全燃焼だった文学への思いです。
この本を読むことは、その思いに火を点けたものを探す旅でした。
須賀敦子のエッセイを再読せずにはいられなくなりました。
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