映画と私 -605ページ目

明るい瞳


今日は、第七芸術劇場で「明るい瞳」を鑑賞してきた。
久々に、やられた。けして、派手な作品ではない。
けど、この作品を見れたことは本当によかった。

主人公のファニーは、精神を病んでいる。
兄夫婦の家に世話になってるが、居心地は悪い。
義理の姉の浮気をみつけてからは、とくに居づらくなり、
とうとう押さえきれなくなって暴れてしまう。

兄の家にいれなくなったファニーは、ひとりフランスから、
父の墓があるドイツの小さな村へと旅立つ。
ドイツについて、パンクしているところをオスカーという男が助けてくれる。
言葉は通じないが、ファニーはオスカーに惹かれていく。

映画をみて、よかったと思うのは私の中では、2通りあって、
それは映画全体を通して完成度が高いということと、
もうひとつは本当に短い時間だけど、心が震えるような美しいシーンがあることだ。

この作品は、どちらの要素もあるけれど、特によかったシーンがあった。
ファニーがオスカーの家でピアノをみつける。
そのピアノは大きなピアノカヴァーがしてあって、
ファニーはそのカヴァーを頭からすっぽり被り全く姿が見えない状態で、
シューマンの曲を弾く。
そこにオスカーがやってくる。
美しいピアノの音に感動した、オスカーは拍手する。
拍手に驚いたファニーはピアノカヴァーから顔を出す。
たったこれだけのシーンなのだけど、私は涙が出そうになった。
シューマンの曲も良かったけれど、
言葉の通じないふたりの間に確かに何らかの恋のような感情が
そのとき生まれたとわかったからだ。

それからもふたりは言葉を交わさずに、少しずつ距離を縮めていく。
言葉なしで、自然のなかでやりとりされるふたりの愛は本当に美しい。
私たちは一体、何を喋る必要があったんだろうと思ってしまう。
ファニーが求めていたのは、言葉で説明できるものではなかったのだ。
言語や社会性そういうものが逆にファニーを苦しめていたのだ。

私が、ファニーに共感してしまうのは、程度の差はあれど、私もそういったものに窮屈さを
感じているからだ。この作品はそういうものから静かに解放してくれる。
会話なしで、みていられる映画が今、果たしてどれだけあるだろう。
この77年生まれの監督、私と同じ年!すごい人である。
                  
                  
                 

桂春菜独演会


思いっきり、三日坊主でブログ更新してなかった・・。今日から書くぞ。
今日は、天満天神繁昌亭の「桂春菜 独演会」に行ってきた。

桂春菜は故桂春蝶の息子。たまたま深夜テレビで、たちぎれ線香を観たことがきっかけで
ファンになってしまった。そしてそんな時、父から偶然春菜さんのチッケトをもらいこれは、
運命やわとますます好きになったのだ。
 
そんな春菜さんの今日は初の独演会である。なんだか気まぐれに決まったものらしい。
「看板のピン」「たちぎれ」「野ざらし」の3本。気合いが入っていた。
やっぱりおもろい落語家というのは、演技力とその人にしかない味があるかどうかだと思う。

春菜さんはもちろん演技力もあるけれど、私が好きなのは勢いが増すほど、白目を剥いてしまうとこだ。
今日は、かなり剥いていた。普段はものすごい瞬きが多い人だけど、
それすら白目剥くための準備運動やったんかと思えてくる。
声にも、特徴があり乗ってくるとどっからでてんのかというくらい高い。
声も目と同様、剥けてるかんじ。端正なお顔ゆえに、そのギャップが私にはたまらんのです。

そして今日一番印象深かったのは、ご両親の話。
春菜さんが中学校の頃、帰宅すると両親の話し声が聞こえてきた。
その内容、母「私は呪われてなんかないーーー。」父「来い!来い!」というもので、
春菜さんが驚きドアを開けると父が母の上に馬乗りになり、
母の頭でグレープフルーツを搾っていたというのだ。
母が年々、口答えをし、偉そうになってくるのは悪魔の仕業だと思った父は、
グレープフルーツの自然の力を借りて悪魔払いをしていたそうだ。

頭でグレープフルーツ搾るって。このご両親ありきの、春菜さんなのか。
普段はとても好青年なかんじなのに、白目を剥いた姿を1度目にしてしまうと何となく、
それが納得できるのだった。


                   

マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶

今日は、十三の第七芸術劇場で、「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」を鑑賞。
私は、マルチェロ・マストロヤンニが大好きだ。みるとなんかホッとする。
役の幅も広く、柔和なかんじで、二枚目なのになんでもやっちゃう。
巨匠からコメディまで。彼の出演作で一番好きなのは、ニキータ・ミハルコフの「黒い瞳」。
あの、おどけてどうしようもないかんじが私の中の、マルチェロのイメージと一番近い。
もちろん映画もすばらしいから。
今回の「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」はいろんな人々、娘や監督たちスタッフ
そして本人のインタビューと映像で紡ぎだされている。マルチェロの人となりがよく伝わってくる。
けど、こういう人々によって語られる形式の映画というのは、ちょっとつまらなくなりがちだ。
今回のも、途中少し退屈してしまった。たぶんみんなが口を揃えて、マルチェロは素晴らしいと
絶賛しているからだ。それは悪いことではないけれど、この映画をみなくても、
マルチェロが素晴らしいのはわかる。私の想像もしなかったマルチェロ像がみたかった。
唯一マルチェロのダメ出しをしていたのが、ビスコンティだった。
それは、マルチェロがものすごい電話魔で、撮影中も時間があるとずっと電話しているというものだった。けど、それすら私にとっては意外ではなく、孤独を愛しながらも、寂しがりやなマルチェロの
イメージぴったりだった。
あー、久しぶりにマルチェロの映画がみたい。「黒い瞳」をまたみてみよう。