楚の都として知られる紀南城。
私が初めて楚に触れたのは『春秋左氏伝』で、
地図を見ながら読んでいたし、初めて荊州博物館に行ったときから
“紀南城復元模型”などを見て育ってきていて、
何も疑わずに楚の都は紀南城なんだと思っていました。
しかし実は紀南城は戦国時代の都城であり、
出土文献や考古学的調査によると、春秋時代に
楚が紀南城を首都としていたことは恐らく、ない……。(記事公開時点での情報)
その事実を最初に知ったときはショックでしたが、
それ以上に清華簡『楚居』の内容がおもしろいので大丈夫でした。
『楚居』は楚王の移動の歴史について書かれています。
古文字で難しそうに見えますが、
白話訳になると大意は分かりますのでぜひ読んでください。
※2024年6月24日(月)追記:
考古学的に紀南城が春秋時代の首都ではなかったと思われる理由
・紀南城の初期の城壁の築城年代が、春秋晩期〜戦国前期であること
・紀南城周辺地域は戦国時代の出土物は豊富であるのに、
春秋時代の出土物がたいへん少ないこと(著名なものはゼロ)
・春秋時代の出土物は紀南城よりも北の地域に集中していること
(個人的なおすすめは淅川楚墓です。
紀南城が当時の首都であるならこれほどの副葬品をされた人物を
なぜめちゃくちゃ離れた北方の淅川に葬っているのか?)
ただ、まだ答えはありません。
春秋期の、紀南城クラスの都城跡の新発見を待ちます。
追記おわり
で、紀南城っていつから紀南城と呼ばれているのか気になりました。
これがなんと『春秋左氏伝』の杜預注だったんです……。
桓公二年(前710)の注に
楚國は、今の南郡江陵縣の北、紀南城なり。楚の武王始めて僭號して王と稱し、中國を害せんと欲す。蔡・鄭は、姬姓にして楚に近し。故に懼れて會し謀る。
と書かれています。
これは楚武王の時代の出来事の注で、
紀南という地名が出てくるのは杜預注の中でもここだけです。
そして、紀南の地名は『春秋左氏伝』本文には出てきません。
(考古学的事実として春秋時代に紀南城が都だったことはないので、
本文中にその名が出て来ないのは当然のようでもあるのですが……)
なので『春秋左氏伝』地図が楚都の位置を紀南城とするのは
間違いではないんですよね。『左伝』においてはそうなっているので。
私が書き残したかったことは
“紀南城”の出典は『春秋左氏伝』杜預注!
ということであり、後半は紀南城について正しく説明したいので、
例によって中国サイトの文を勝手に訳して置いておきます。
この論文、コラムとして転載されていて元ネタを探すのに苦労しました。
▲2015/01/04(日)の紀南城
▲2013/11/13(水)の紀南城
↓↓↓↓ここから↓↓↓
孙继氏、陈程氏《纪南城大遗址历史文化资源及价值初探》
(《安康学院学报》2012年第3期97-100)一.纪南城的性质 を引用
紀南城遺址は荊州古城の北5kmの地にあり、
東は豊かな江漢平原に接し、西は険要な鄂西山地を臨み、
南は万里の長江が連綿と流れ、北には襄荊大通があり中原に通じている。
城西およそ5kmには南北に八岭山楚墓群(別名“龍山”)があり、
城北およそ25kmには紀山楚墓群、城の東北1kmには雨台山楚墓群があり、
東壁の外には一面の湖・海子湖が広がる。
明の曹学佺『大明一統名勝志』によると、
「紀南城は紀山の南に位置することから名付けられた」。
(*中國哲學書電子化計劃の『大明一統名勝志』82巻目、画像データでは22/112頁で見られます)
(記事公開時の情報)
西晋の陳寿『三国志』呉志・朱然伝附子績伝に
(吳赤烏十三(250)年)魏征南將軍王昶率眾攻江陵城,不克而退。(中略)績便引兵及昶於紀南,紀南去城三十里,績先戰勝而融不進,績後失利。
とあり、遅くとも三国時代には既に紀南という地名があったことが分かる。
現存する文献で最も早く紀南城の名が見えるのは西晋の杜預の、
『左伝』の桓公二年の注釈である。(*上記参照)
それ以降は『荊州記』、『水経注』、『括地志』
などの文献にも記載がある。
紀南城の性質については以下のような記述がある。
前漢の司馬遷『史記』貨殖列伝:“江陵故郢都,西通巫、巴,東有雲夢之饒”
後漢の宋衷『世本』:“武王徙郢(『左伝』桓二年(前710)正義)。
宋仲子曰“今南郡江陵縣北有郢城”
西晋の杜預『春秋釈例』土地名:
“楚國都於郢,南郡江陵縣北紀南城,東有小城名郢”
『後漢書』梁の劉昭注に引く『荊州記』:
“縣北十餘里有紀南城,楚王所都。東南有郢城,子囊所城”
北魏の酈道元『水経注』沔水:“江陵西北有紀南城,
楚文王自丹陽徙此,平王城之。班固言:楚之郢都也”
唐の李泰『括地志』荊州・江陵縣:“紀南故城在荊州江陵縣北十五里"
歴代の学者たちもこの説に従った。
↑↑↑引用ここまで↑↑↑
紀南の名前が左伝注の次に見えるのが『三国志』、
しかも呉書の施績伝というのがうれしいサプライズ……。
あ、楚文王の丹陽というのはあの丹陽
(三国志オタおなじみの地名・今の江蘇省鎮江市)ではなく
私は現在の湖北省丹江口市あたりじゃないかという説を指示しています。
郢の実際のあり方についてはまず『楚居』を読んでいただき、
その後各種考察にあたっていただくのがよろしいかと思われます。
ちなみに荊州古城の北東に“郢城遺址”という場所もあり、
行ったことがあるのですが写真が残っておりません……
一瞬通っただけだったので撮れなかったか行方不明になったか……。
(上記『春秋釈例』や『荊州記』の記述と一致する場所です)
紀南城の区画はいまだ発掘中ですが、
文物碑の前までは普通に市内バスで行けました。
今はどうなっているのか分かりませんが、
このあたり普通に人も住んでいましたし、行けるんじゃないかな……。
以下3枚は2013/11/13(水)に撮った紀南城遺址です。
▲「紀南城大遺址」
▲「此処禁止倒垃圾」「◻︎地文物保護区 荊州文物局」
▲見づらいですが牛がいます
撮影しながら「この牛が突進してきたら死ぬな……」と思ってました
文物碑の奥はご覧のように豊かな大地が広がっています。
当時は普通に入れました。牛もいました。
紀南城の区画が広大であったことが分かります。
▲荊州博物館の紀南城模型 2012/11/02(金)
説明文にも「文献によると、楚文王から白起に攻め込まれるまで
計20人の王がここに首都を定めた」と書いてある。
文献ではそうなっているのは間違いないのだが……
最後に行ってから5年経っているので今の説明文は分かりません。
毎年行っていたのに……
ここまで読んでいただきありがとうございました。
紀南城の牛のアップでお別れです。
▲2013/11/13(水)