楚辞 《九章》 巻第四 解題 | 呉下の凡愚の住処

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国民文庫刊行会『国訳漢文大成 楚辞(釈清潭)』(パブリックドメイン)

より

 

王逸曰く《九章》は屈原が作る所なり、屈原江南の野に()てられ、君を思い国を(おも)い、憂心極り()し、故に(また)《九章》を作る。章は著なり、明なり。己陳ずる所、忠信の道甚だ著明なるも、(つい)に納められず、命を委ね自ら沈む。楚人惜んで之を哀しむ、(よよ)其の詞を論じ、以て相伝うるなり。

林雲銘(*『楚辞灯』)曰く王逸云々、(ここ)に其の文を以て考うるに《惜誦》の如き、乃ち懐王に(うとん)ぜらるる後、又言を進めて罪を得、然れども(また)未だ放れず。次は則ち《思美人》《抽思》、乃ち言を進めて罪を得、後懐王之を(ほか)に置く。其の都に(いた)るを称して南行と為す、朝臣を称して南人と為す。置て漢北に在る疑無し。江南の野の若きは則ち之を東遷と謂う、而して思君を以て西思と為す。《哀郢》篇あり証す可きなり。

洪興祖謂う懐王十六年原を放ち、十八年(また)召し用う。放つ所の処を言わず、而して王逸は《哀郢》を注して、以為らく懐王不明、讒言を信用して、放逐して東遷す。又懐王既に放ち、頃襄又放ち、皆江南の野に在るに似たり。殊に知らず、《哀郢》の篇、“九年不復”の詞あり。()し果して懐王の放つ所なれば、則ち此れより後、斉に使する、張儀を釈し武関に会するを諫むる者と又是れ誰ぞや。或は謂う懐王(ただ)是れ原を(うとん)ず、(ならび)に未だ嘗て放たず、即ち洪興祖(はなち)(また)召すの説、未だ確徴あらず。

余『史記』の本伝を案ず、“雖放流”の句あり。《任安に報ずる書》、“又屈原放逐して乃ち《離騷》を賦す”の句あり。則ち《思美人》に所謂“路阻”“居蔽”と、《抽思》に所謂“異域”“卓遠”、其の国中に在りて職に供せざる、知る可し、江南の野と交渉無きのみ。大約先に讒を被り(ただ)是れ(うとん)ぜらるるのみ。本伝に所謂、“不復在位”は(また)左徒の位に在らざるを以て、未だ嘗て朝に在らずんばあらず、故に斉に使し及び張儀を(ゆるす)を諫むる二事あり、再諫に及んで(ほか)に遷さる。(まさ)に是れ放。然るに数年ならずして召回(めしかえ)す、故に又武関に入るを諫むる一事あり。其の後、《哀郢》篇に云う所の“九年不復”なる者は、其の遷所に在る日久しきを痛み、懐王己を召すを以て比照す、頃襄の暴を甚しとする所以のみ。

《渉江》以下の六篇は(まさ)に是れ頃襄之を江南に放ちて作る所、(はじめ)て放たれ行を起す。水陸の()る所、歩歩(かなしみ)を生ずるは則ち《渉江》なり。既に江南に至り、目に触れ見る所、借て以て自写するは、則ち《橘頌》なり。高秋揺落の景況に当りて、慨を時事に寄せ、彭咸を以て法と為し、(かつ)淵に赴き待つあるの故を明すは則ち《悲回風》なり。(もと)淵に赴むかんと欲し、先ず言う貞讒(ていざん)分たず、国に害あり、(かつ)弁白し易し、一察の後、死する(また)怨無きは則ち《惜往日》なり。《哀郢》は則ち国勢日に危亡に趨きて、骨を郢に帰す能わざるを以て恨と為す。《懐沙》は則ち絶命の詞、当身に得ざるを以て、之を来世に俟つを期と為す。

看来れば九章(おのお)の意義あり。所作の先後、未だ開載あらずと雖も、但本文を玩そべば、瞭として(たなごころ)を指すが如し、紛々聚訟を待ず。原本錯雑次無し、皆未だ曽て本文を細読せざるに由る。篇篇訛解する所以。余同里の黄維章先生訂正する所の者に依て以て定次を為す、敢て臆に憑り更易するにあらず。

 

 

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内容は丸写しですが、

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