孫策の娘について。 | 呉下の凡愚の住処

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春秋戦国の楚国、三国志の孫呉にすべてを捧げて生きています。
現在はあまり更新していませんが、
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『三国志大戦』に孫氏という名の女子が現れ、
カードの説明を見るに孫策の娘だそうなので言及してみた。
5行程度で終わる雑感の予定でしたが、長くなったので独立させました……



孫策の娘は


顧邵(丞相・顧雍の長男。顧雍よりも早く32歳で死去)
朱紀(朱治の次男。校尉になったという記述しかない。早世したのでは?)
陸遜(顧雍の後任。なぜか裴松之に超嫌われている)


に嫁いでいます。
私、これまでずっと策には娘が3人いたのだと思い込んでましたが、
「もしかすると朱紀の妻と陸遜の妻は同一人物かも?」
という妄想が今回の主題。



顧邵は少なくとも呂蒙さんの存命中に亡くなってるし(呂蒙伝を読んでね!)、
朱紀も早くに亡くなっているかも、と妄想したら*
陸遜に嫁いだ孫策の娘って、もしかしたら再婚かもしれないですね……
*朱紀の二人の弟は早く亡くなってるので早死にの家系だったのでは……)


特に朱紀なんて子供について書かれてないですし、
朱紀が死んで未亡人になった孫策の娘は、

そのまま陸遜に嫁ぐように言われたのかも分からん。

ちなみに三人とも、孫権のはからいで結婚させられてます。

顧邵と陸遜は呉郡の四姓の一族ですなあ。朱治は違う。



んんー陸遜伝を見ると、(記述の順番を信じるなら)
陸遜が若いときに孫策の娘を娶わせたかのように書いてあります。
ちなみに陸遜は21歳(203年)で仕官しているので、
仮に(本当に仮に)仕官から10年後の31歳のときに娶わせたとしても
213年から結婚生活がスタートしていたことになる。


でも陸抗は226年生まれで、彼が次子だということを差し引いても
生まれるのがあまりにも遅すぎる気がする。
226年っていったら陸遜もう44歳ですよ。
若かりし頃に奥さんをもらっておきながらその歳まで放置かよっていう。
(余計なお世話ですね)
孫策の娘さんが子供のできづらい体質だったのかもしれないですが……


「若いうちに奥さんをもらった」よりも、
「未亡人になった孫策の娘を陸遜に与えた」ほうが、
陸抗の生年的にも自然な気がするのですが、どうなんでしょうね。


陸抗の兄・陸延は夭逝しているので詳しいことは分かりませんが、
陸抗は「孫策の外孫」とはっきり書いてあるので、
幼節さんが孫策の娘の子というのは間違いないとおもいたい。


顧邵に嫁いだ孫策娘も確実に226年より前に未亡人になっていますが、
(3年間喪に服していても226年より前)
顧邵には男子が生まれているのだから再婚させたりしないだろうと……
まあ陸抗とは違って、顧譚も顧承も
「親が孫策の娘」だとは書いてないですけどねえ。



***



ふうふう、久々に三国志を読んだ。
自分の浅学さを晒すのが恥ずかしいので、
最近はこの手の文を書くのを自粛しているんですが……まあ書いちゃいました。
またしばらく自粛します。研究者の方にはお目汚し失礼しました……


陸抗の生年については以前から「遅いな!」

とおもってて、今回の胡散臭い話をでっち上げることになったわけです。

三国時代に関する書籍は『後漢書』『三国志』『晋書』しか読めないので、

いろいろ間違ってそうでほんとにお恥ずかしいです。

集解とか建康実録とかも早く欲しいのですけれども……

ウン万円の本は、買えたとしても家人には言えないですね(笑)