宣言どおり、聶友のおはなしをしますー。
今日はこの聶友さんがどんな人なのか、簡単にまとめてみます(自分用に)。
聶友(じょう・ゆう)、字は文悌。豫章の人。
弁舌の才があり、若くして県吏となった。
虞翻が交州に流されることになったとき、県令は聶友にその出発を見送らせた。
虞翻は聶友と語り合ってその才を高く評価し、
豫章太守の謝斐に手紙を送って「聶友を功曹にすべし」と薦めた。
謝斐は豫章郡のもとの功曹を引見すると、
「県吏の聶友は、どんな役職に就けるだろうか?」と問うた。
「聶友は県の小役人に過ぎないが、曹佐ぐらいは務まるだろう」と功曹は言う。
そこで謝斐が言うには
「聶友を功曹に就けたいと主張するものがいる。
あなたには現在の官を譲ってもらいたい」
こんなやりとりを経て、聶友は豫章郡の功曹となった。
使者として都に行った折、諸葛恪と友誼を結んだのである。
そのころ世間では顧譚と顧承(ともに顧雍の孫)がすぐれた人物であり、
二人に比肩する者はいない、と言われていた。
諸葛恪が聶友を二人に並ぶ地位を占めさせようとしたため、
聶友の名が人々に知られることとなった。
のちに将軍になり、赤烏五(242)年の7月には、
陸凱とともに兵3万を率いて儋耳・朱崖(郡の名前。交州)の討伐をおこなった。
帰還したのち丹陽太守に任ぜられたが、33歳で死去した。
以上、諸葛恪伝の注に引く『呉録』より。
諸葛恪とのエピソードはこちら(諸葛恪伝より)↓
建興元(252)年の10月、東興において魏と呉の間で戦いが起こる。
呉の総大将は諸葛恪(おそらく。メモ程度なのでごめんなさい……)。
この戦いに大勝し慢心した諸葛恪は、
翌年の春にはまた軍を動かしたいと言い始める。
朝臣たちはもちろん反対したが、
論を著して「絶対に魏討伐に行ってやる!」と強固な姿勢をみせる。
(ちなみにこのときの論に、呉越の話が出てきます。伍子胥の名も)
ここで出てくるのが聶友。
かねてから諸葛恪と仲の良かった聶友は、諸葛恪に手紙を送って諌めた。
「(超意訳)東興でのきみの勝利は確かにすごい。
だが、あれはご先祖さまや神霊のおかげなのだ! まずは休んでほしい。
いま戦勝の勢いで魏を討とうとしても、天の時がそれを許さないぞ」
しかし当然のように意見をいれない諸葛恪。
わざわざ自分の論を書き写して、
「これを熟読してくれればきみにも分かるはずだ」などと返事をしています。
そしてそのまま軍を動かし、合肥新城の戦いで負けて撤退、
のちに孫峻によって誅擦される。
諸葛恪の友人であった聶友も警戒されて交州に流されそうになるが、
病気を発して憂死した。
***
こないだの記事間違ってましたね。流されてはいないっぽい……?
書いてておもったのですが、
諸葛恪が誅殺されたのが253年。
聶友の死も253年もしくは254年(流刑になる前に死んでるぽいので)。
このとき聶友33歳。
ということは、陸凱と交州に討伐に行ったのはまだ22歳か21歳、
功曹になったのなんてさらに前のできごとだったんですねえ。
というか、虞翻が交州に流されたのって、
孫権が皇帝に即位する229年より前のことだとおもうのですが
(虞翻伝の注に引く『虞翻別伝』に、
虞翻が交州から孫権の皇帝即位を祝賀した文が載っている)
それ……まだ聶友、生まれて数年しか経ってないんじゃね?
8歳9歳くらいのことだとおもいますよ……史料を信じるなら。
「若くして県吏になった」って、若すぎだよ!!
まあ、虞翻ってのちに更に奥地に流されてるんで、
聶友が見送ったのはそのときかもしれませんよね!(逃)
なんか考えてると怖くなってきたので、続きは後日……
ちなみに『捜神後期』の話は、
聶友の出世の裏にはこんな出来事がありましたーという「怪」のおはなしです。
聶友の若い頃の話なのですが、
年齢の記述から考えるとその若い頃ってまだ幼児なのでは???
おおこわい。
まぁ、聶友の年齢が間違って伝わってるって考えればいいのですが……
このへん、どこかに別の資料があったりしないかなあ(他力本願)
もう完全に自己満足な文ですね。めっちゃ長いし。
読みにくくてごめんなさい……