聶友について・その2 | 呉下の凡愚の住処

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春秋戦国の楚国、三国志の孫呉にすべてを捧げて生きています。
現在はあまり更新していませんが、
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昨日の虞翻と聶友に関する妄想の続きです。
興味のある方は昨日の記事 もあわせてご覧ください^^



虞翻が南海郡からさらに奥地(蒼梧郡)に流されたのって、


「遼東の公孫淵とつるんでも何も得るものはないのだから、
 わざわざこちらから馬や財宝を贈るなどとんでもない」


って上表文を呂岱に見せたんだけど、呂岱が返事を迷ってるうちに
虞翻嫌いな人がそのことを知って告げ口をしたから……
って理由からなんですよね。


呂岱が交州にいたのは220年~231年のことなので、
(聶友が221年生まれだと仮定して)
231年に虞翻をお見送りしていれば、聶友11歳!
うん、これなら数歳ではないな…………



書きながら、めちゃくちゃ苦しい妄想だとおもいます。
県吏って11歳でも就任できるのか?とか、
豫章からわざわざ南海まで見送りに行くだろうか?とか、
苦しすぎる疑問点がいっぱいあります。


まあ、……まあ、あとは詳しい人にお任せします(逃)
でもこの問題は個人的にものすごく気になったので、
「おそらくこうだと思う」という意見をお持ちの方は気軽にコメントしてください。



ちなみに私の妄想では、


1)聶友の死はおそらく253~254年で間違いないが、年齢が誤って伝わっている。


2)そもそも『呉録』のいうことが間違っていて、虞翻を見送ったのは別の誰か。


番外)何も間違っておらず、聶友は生まれて数年で県吏になり、
 10代前半には郡の功曹にまでなった才児。


のどれかじゃないかな~ということになりました。


聶友の話、あと(たぶん)一回だけ続きます。

虞翻は大好きな人物なので、ついつい掘り下げてしまいましたよ……
終わったら、また魯粛さんのことでも書こうとおもいます(笑)