ちょっとしたシリーズ化しているもやもやから学ぼうのお話です。 

 

 まず前提条件として最初の出来事から読んでいただけると分かり易いかと思います。 

 

 

 

 枝葉の記事は余力があれば目を通してみてください。 

 

 

 

 

 ざっくり言うと母校の管弦楽部でコントラバスの演奏用の椅子が捨てられていたというこの出来事ですが、今回の気付きとしては 

 

 自分自身も目が曇っていたな 

 

 という事でした。 

 

 最初、この出来事に遭遇した時の私の感想としては「他のパートから関心が薄すぎるんじゃないか」という物でした。 

 

 練習の時で数時間、本番の演奏一発でも数十分の間、立ちっぱなしで居る事が辛いと思わないのか、少しでもそこに気付けば、買い替えの前提無く捨てる事に疑問を感じるのではないか、という事ですね。 

 

 ただ、これに関して途中で私もはたと気付いたのです。 

 

 でも自分も他のパートの苦労するポイントを把握は出来ていないな 

 

 という事に。 

 

 この辺りは以前書いた記事とも重なりますが 

 

 

 人間とは自分の領域で起こった事でないとなかなか当事者意識なんて持てないものなんですね。 

 

 ここで言葉の上でだけ「自分→パート→オーケストラと抽象度を上げれば自分事として捉えられる」というのは簡単ですが、現実はそう簡単ではないんですよね。 

 

 勿論、オーケストラの仲間という観点で周りを見ようとするのはとても大事ですが、やはりそれぞれのパートの特化した性質を一人の人間が完全にフラットな視点で見る事は現実的ではありません。 

 

 実際前回の記事にも書きましたが、コントラバス奏者の中でも椅子の重要性は人によって変わってしまうので意識の統一は余程難しいと言えます。 

 

 そう考えると、一概に「オーケストラとしての意識が低い」とは言えないなと冷静になれました。 

 

 そこで冒頭の「自分も目が曇っている」という発想に至り、自分のパート以外に目を向けるようになりました。 

 

 最初に私が問題視した「立ちっぱなし」という観点で言えばまず筆頭に当てはまるのは指揮者です。 

 

 世界的な指揮者にも椅子に座って振る人は居ますが、やはり基本的に演奏の瞬間には立つ事が圧倒的に多いです。 

 

それは全身で表現をオーケストラに伝えたり、パートに指示だしをする為にそちらを向くという時に立っていた方が都合が良いからです。 

 

 考えてみるとどんなに忙しいパートでも多少は全く演奏しない時間が出てくるオーケストラ側と違って、音楽が続く限り自身も動き続ける指揮者は大変だなと感じました。 

 

この事実に関しても、以前から頭では理解していましたが今回の件でより自分事に近い感覚で理解する事が出来ました。 

 

 後は同じように立ちっぱなしになりやすいのはパーカッションですね。 

 

 鍵盤系の楽器の場合はやはり機動力が求められますし、叩きっぱなしの曲もそう無いので立ちでの演奏が普通かなと感じる所もありますが、シンパシーを感じるのはティンパニですね。 

 

パーカッションは基本的に曲の要所登場する形であるため、叩かない時は普通の椅子に座っているので体力的な問題は少ないですが、だからこそ立奏と座奏の違いが奏者によっては大きな問題になる事を知らないと、椅子の有無は贅沢の問題と誤解を受けてしまうでしょう。 

 

 椅子によるパフォーマンスの違いで、意外と見過ごされがちなのはチェロだったりします。 

 

 座らないと話にならないという意味では、椅子の数が少ない練習会場でも優先的に椅子が回ってきやすいと言えるチェロではありますが、実際の所椅子の高さが構え方にかなりクリティカルに響くため、最高のパフォーマンスを発揮してもらうには高さの調整が利く椅子が必要なのです。 

 

 最後に紹介したチェロに関して言えば、これも母校のコントラバスパートで起きていたのと同じ「本人たちが問題に気付けていない」という事にも繋がっていそうな気もします。 

 

きっと、更によく周りを観察すればもっといろいろな事が見えてくるでしょう。 

 

 問題があったらあったで自分の被害だけでなく、「同じような事が他でも起きているかも」という視点を持つと結果として全体への理解に役立つかもしれません。 

 

 ここで問題が起きたという事は、自分も何か見過ごしていたのかもしれない。 

 

 こういう様に意識を切り替え認識の曇りを取り去るようにしましょう。