前回の記事からの続きです。 

 

 

 前回の記事の引きでお伝えしたとおり、今回は先の東日本大震災での私の体験のを元に、人の想像力の限界と、本当の意味で悲劇について考えることについてお伝えしようと思います。 

 

 先の東日本大震災の当時、私は大学の部活の合宿の帰りのバスの中でした。 
 
 バス自体は東京にまで来ていた為無事に大学までは帰りつけましたが、ニュースで流れる津波の映像を見て「実家の近くだ」と青ざめる同期や、福島出身の先輩が泣き崩れている様子を目の当たりにして、一種の無力感や絶望に襲われました。 
 
 私自身は親戚も皆東京なので家族を喪ったりというようなことはなかったものの、弟たちは当時中学生と保育園児だったのでとても心配しましたし、部活においても当時は次期代表という立場だった為、運営からの安否確認とは別で同期に安否確認をした所、一人から反応がなく、蓋を開ければ寝ていて返事が遅れただけだったものの、とてつもなく気をもんだという経験があります。 
 
 最終的には大学の友人や先輩も含め、幸運にも私の周りに震災で命を落とした方は居ませんでしたが、私には私なりの震災体験と絶望がありました。 
 
 しかし、やはりそうはいっても実際に震災で家族や大切な人達を喪った方々の気持ちに寄り添えるとは到底思えないのです。 
 
 このブログを読んでくださる方にも各々の体験があるかと思います。

 

 そこから考えていただければ震災を経験していてもその見え方は大きく違う事、そして「日本人だからこの悲劇の苦しみが分かるはず」というような言葉がいかに空虚か分かるでしょう。 
 
 ここで、私の震災の体験を「所詮誰も失っていない人間の感想」だという人も居るでしょう。 
 
 まあ逆にその方が私の主張を理解しているとも言えますが、要するに当事者でない人間が当事者の心を理解する事は出来ないのです。 
 
 余談ですが、ユダヤ人団体もこの「日本で言えば~」のような発言があったという話も聞きますが、それに関しては私は原文を見つけられていないですし、言語の違いから読解も出来ないのでその事に関するコメントは出来ません。 
 
 話を前回の記事で触れたホロコーストをネタにしたことに戻しますが、本来はその当事者の心を理解する事が出来ないという前提を持たないとこの「ホロコーストをネタにする」ことの何が悪なのかを語る事は出来ないんですよ。 
 
 厳しい事を言いますが、今回の解任騒動で、「あいつには人権意識が無かった」等と軽々しく言える人の人権意識は皆無です。 
 
 なぜならそういった発言が出るという事は、この問題を口に出すか出さないかの浅い部分でしか見ていないからです。 
 
 勿論、何か悪い事を思い浮かべて、それを表現するとしないで大きく違う事は事実です。 
 
 しかし、この問題を個人の言った言わないにフォーカスするという事は、ホロコーストという悲劇の内容からは積極的に目を背けているとも言えるのです。 
 
 基本的に日本人がユダヤ人の悲劇を理解する事は不可能です。 
 
 原爆で家族を喪った人と、ホロコーストで家族を喪った人はそれぞれに別の苦しみがあり、安直に「悲劇」や「絶対悪」という様に一緒くたにするのは不適切です。 
 
 そういった意味で、誰一人ホロコースト当事者の苦しみ理解していない日本人が、潜在的に同じ程度の認識しかないのに、無知故の過ちを、その失敗をした個人をつるし上げただけで解決だと考えるのであればむしろそれは当事者に対する冒涜なのではないかと私は考えます。 
 
 今回の件で本当にホロコーストについて考えるにしても、「ホロコーストのような悲劇を繰り返さない」事と「ホロコーストからの生き残りの心をケアする」事では考えるべき内容は大きく変わります。 
 
 そういった事に真剣に取り組む為にもまずは「人は自分に起こったこと以外は全て対岸の火事である」という認識を持った上で、その立場から出来る事、考えるべきことをすすめるべきなのです。 

 

 自分自身の想像力と認識の範囲を知りましょう。