今回の記事は、必ず前回の記事とセットで読むようにお願い致します。 
 

 

 

 前回の記事では、オリンピック開会式直前のごたごたから大きなテーマとして 
 
 世の中には人の本質から目を背けて語る言論が多すぎる 
 
 という事を挙げ、小テーマとして「人の本質と暴力は切り離せない」という事を書きました。 
 
 あえてショッキングな書き方をしていますが、記事を読んでいただければ安易な暴力肯定ではないと理解して頂けると思います。 
 
 そして今回の紹介する人の本質は「人は想像力の働く範囲でしか悲劇を認識出来ない」という事です。 
 
 誤解を招きかねない言い方ですが「人の命の重さには認識上大きな差がある」とも言いかえられます。 
 
 この記事のきっかけになったオリンピック開会式の直前のごたごたの原因も、根本的にこの人の本質に則したものです。 
 
 勘違いしてはいけないのがこれは決して「ホロコースト大虐殺ごっこ」という単語だけの話ではありません。 
 
 確かに「ホロコースト大虐殺ごっこ」という単語をジョークとして使ってしまうという事は、当時の小林賢太郎氏の中で実際にホロコーストの場に居た人々の苦しみが想像出来ていなかったのでしょう。 
 
 ※前回の記事にも書きましたが、小林賢太郎氏はこういったジョークも含め、「誰かが傷つく笑いの取り方」について反省と否定の立場を取っています。 
 
 ただ、苦しみが想像出来ていなかったと書きましたが、良く考えてみてください。 
 
 その悲劇の中に居なかった人間が、当事者の苦しみを理解する事が出来ると思うこと自体大きな間違いなのではないでしょうか。 
 
 今回の騒動で巻き起こった意見の中で私が最も薄ら寒く唾棄すべきものだと思う言論にこういった物があります。 
 
 「日本で言えば原爆投下を始めとする戦災や、先の震災等をネタにされるようなものだ」 
 
 私はこういった発言は個々の悲劇を矮小化する事に他ならないと感じています。 
 
 今、日本人に戦争の悲惨さを直接体験した人は何人いるのでしょうか、その場に居合わせなかった我々が同じ国の住人だというだけで軽々しくその悲劇を語るのが果たして正しいのでしょうか? 
 
 これは、戦争の悲劇を後世に伝えていくのが無意味だという意味ではありません。

 

 実際に戦争体験者の話を聞いて、それだけで辛く悲しい気持ちになるという事はあります。

 

 しかし、どんなにリアルな描写だったり、語る人の悲痛さが伝わってきたとしても、そこで感じたものは言ってしまえば自分の想像力の範囲の中でしかないのです。

 

 裏を返せば、戦災体験談を聞いてどれほど心動かされたとしても、それは体験者のその時の感情には決して及ばないという事です。

 

 まずはその認識を持つことから始めましょう。

 

 次回は、私自身も端の方で体験し、読者の方々も比較的リアリティを感じやすいと思われる、3.11東日本大震災を例にこの話を掘り下げようと思います。